三毛作(さんもうさく)
石英丸が田の畔で、紀伊の土橋三郎、鈴木四郎に稲の育て方を説明している。
「このように、イネの花が咲き終わったら、梅雨前の時のように、ときどき、田の水を抜きます」
「この時に、イネの隙間にソバの種を蒔いてしまいます」
「もう蒔くのですか」
「はい、今蒔いておけば、十月末にはソバの実が収穫できます。ソバの収穫より前に、同じようにムギまたは冬野菜の種を蒔いておきます。紀州は、ここより暖かいでしょうから容易に年三回の収穫が得られるでしょう」
「年に三回ですか」
春に、保温苗代を教えてもらった時も驚いていたが、一つの田で、米、ソバ、麦が一年のうちに収穫できることにも驚いた。
百姓が領主に納める義務があるのは、米だけであった。ソバと麦はすべて彼らの自由になる。加えて最近ソバの需要が増えていたので、ソバも麦も余れば市で売ることが出来る。
彼らは紀ノ川の河口あたりの住人であった。干しシイタケの取引開始により縁が出来、とびの村の農業を学びに来ていた。
「このとき、硫安はいれるのですか」
「入れなくとも大丈夫です。ソバは肥料を加えなくとも育ちます」
彼らは来年の春まで村で学び、紀州に帰って新しい農業を始めることになっている。
「田植え前の四月初旬までに収穫できるムギの品種は、片田村が提供しています。ムギを収穫した後に田に水を入れ、すぐに田植えを行います」
彼ら、紀ノ川の河口域の農民は、やがて勢力を増してゆき、惣として自立性を持つことになる。後の雑賀衆である。
同様の交流が、名張、伊賀、甲賀、山科、長岡、丹波など畿内の各地と行われていた。
堺で、戎島埠頭が完成した。島は東西が二百メートル、南北が四百メートルの大きさで、北東端から橋が伸びて堺の町につながっている。
南岸は四つの船渠があり、造船が行われる。西岸からは八本の桟橋が沖に向かって伸びていて、多くの船が荷の積み下ろしを行っている。中央部には造船に必要な技術者の町があり、鍛冶町、番匠町、帆町、縄町などと名付けられた。北部は倉庫群であった。
島の東側には、小さな舟用の桟橋がいくつもあった。
戎島と堺を繋ぐ橋は、いくつかアーチが付けられて、砂の堆積を防止している。
この時期、片田が発注したものも含めて、大量の造船需要があったので、船渠で船体が出来た船は、桟橋側に曳航し、艤装は桟橋で行っていた。
桟橋には幾つも木製の起重機が設置されていた。
帆船の場合、通常は帆柱を起重機代りに使用するが、艤装前の船には帆柱が無く、地上側に起重機を用意するしかなかった。
「大きいなぁ」塩屋の権太が船渠に横たえられた竜骨を見て言う。彼は造船を専攻しているので、完成時にどれくらいの大きさの船になるか、見当がついた。
島の一番西側の船渠に置かれた竜骨は、中筋の太助が作り始めている二千石級の船のものだった。
彼は毎朝一刻程、子供たちが持ち込んでくる商品の品定めをやっている。それが終わったので、船渠にやってきたのだった。
「どこから手伝えばいい」権太が太助に尋ねる。
「船尾材を頼む。今蒸気室に入っているから、取り出して竜骨に取り付ける作業を指揮してほしい。俺は船首材の方をやる」
「わかった、型板はどこだ」
「船尾の左舷側に置いてある。いつもどおりの番号が振ってあるから、見るだけでわかるだろう」
「よし、引き受けた」
船尾材は、湾曲部がほとんどないので、部品は多かったが、船首材より簡単であった。両方を構成する部品は、すでに手分けして作成済みであった。安宅丸の工程表のおかげで、二人は、その日のうちに船首材と船尾材を竜骨に取り付け終えた。驚異的な建造速度だと言えるだろう。
イギリスが建造した戦列艦ヴィクトリーは、太助の船より十倍近い三千五百トンの戦列艦である。比較するのに無理はあるが、それでも十八世紀のイギリスは、この艦を進水させるのに六年を必要とした。
一方で、彼らの船は、このままの速度で建造すれば、一か月もあれば、進水するであろう。並行で出来る作業は、すべて同時並行で行っているからである。
「大きいなぁ」作業を終えた権太が再度言った。
「そうだな。肋材を取り付けたら、もっと大きく見えるだろうな」太助も同意した。
その年の秋、大和、河内は豊作だったが、京のある山城は飢饉の痛手から立ち直っていなかった。気候は良かったが、人手が回復せず、田や水路の整備も出来ていなかった。
九月、山城に一揆が発生し、京の町の土倉、寺社などが放火された。一揆の首領である蓮田兵衛は、東寺を占拠した。彼らはさらに下鴨神社に進出して、東から幕府を脅かした。
幕府は赤松政則らに命じ、これを鎮圧した。兵衛は捕らえられ、処刑される。
この頃の年の暮れに、足利義政が詠んだ歌である。
いたづらに なすこともなく 月見てぞ
今年もまたや 暮れぬとすらん




