マーナ
少し時間が戻る。
『ブレスト沖海戦』直後のことだ。
ブルターニュの先端にある浜に百数十のガレー船が寄せられていた。
片田商店艦隊は、それを囲むように並んでいる。連絡艇が降ろされ、ガレー船に近寄った。
水兵がコーキング・アイアンという鏨状の鉄塊とハンマーを持ってガレーに乗り込む。
このコーキング・アイアンは、船の継ぎ目にタールを塗った布や紐を詰め込むための道具で、木造の帆船には大量に載せられている。無理に日本語に訳せば、詰鉄、といったところだろうか。
水夫が奴隷に近づき、彼らを拘束している鎖の環にコーキング・アイアンを挿しこみ、ハンマーで叩く。二、三回で鉄鎖が外れた。
解放された奴隷が喜びの叫びをあげる。水夫がその男に道具を渡す。あとは自分達でやれ、という意味だ。
渡された男が大きく頷き、握手を求めて来た。イスラム教徒でも握手をする習慣があるのか、水夫が手を出す。
男が強く手を握り、上下に大きく振った。すこし痛いぐらいだ。櫂を漕ぐのが仕事の連中だ。握力が強いのだろう。
夕方までには、全ての奴隷達がガレー船から解放された。西の海に太陽が沈んでいく。片田商店艦隊の連絡艇が、男たちにガレー船から離れるように促した。
男達が波打ち際から離れる。
砲艦の甲板から、何かが空に向かって放たれ、放物線を描いてガレー船に着弾する。
大きな炎が広がった。
上甲板から軽迫撃砲で焼夷弾を撃ったのだ。他の艦からも次々と軽迫が発射された。
百数十隻のガレーが巨大な焚火になってしまう。
日の光が弱くなるにつれて、ますます燃え盛った。
『金剛』の上甲板で、一人の若者が右の拳をあげて、なにかを叫んでいる。
叫び声が強くなったり、弱くなったりする。時には哀切な響きにも聞こえる。
カレクトの王子、マーナだった。彼は金口三郎が『比叡』から『金剛』に転任したときに、一緒に『金剛』に移動している。
「艦長、マーナは何を語っているんですか」航海長が金口三郎に尋ねる。
「さあな、俺もマーナから彼らの言葉を、ほんの少し習ったが、それとは違うようだ。さっぱりわからん」三郎が言った。
彼がマーナから習った言葉は、おそらく当時のカレクトで日常的に使われていたマラヤーラム語だろう。
それに対して、今マーナが語っているのは、サンスクリット語だった。宮廷儀礼・宗教行事・学術の分野で使用されている古語だった。
まず、ポルトガルによる船舶の攻撃、カレクトの無差別砲撃について怒りをもって語り、失われた命に哀悼を捧げる。
そしていま、天罰により、悪人が打ち滅ぼされた。
正しき者が最後に残るのだ、そう勝利の歌を歌いあげた。
「何を言っているのか、さっぱりわかりませんが、なんだか、胸にきますね」
「ああ、そうだな」金口三郎が言った。
最後にマーナが舷縁に立ち、用意してあった米の団子を海面に一つ、投げ入れた。
「オーム、オーム、オーム・ナマ・シヴァーヤ」
サンスクリット語の『祈りの言葉<マントラ>』だと、後になってマーナが言っていた。最後の言葉は、この戦闘の戦死者と、カレクトの死者に対する供養の言葉なのだそうだ。
儀式が終わったマーナが振り返る。金口三郎がマーナに微笑みかけた。
「ここまで連れて来て下さり、ありがとうございました」マーナが三郎に言う。
「マーナ一人を連れてくることは、たやすいことだ。気にしなくていい」三郎が応える。当初は言葉がわからず、習慣もまったくちがうので困ったのだが、そのことは言わない。
「こうなった以上は、一刻も早く帰国して、故郷の者達にこの勝利を知らせねばなりません」マーナが言う。
「大丈夫だ。カレクトは今日の戦勝を既に知っている。理由は言えんがな」三郎が言った。
「もう知っているのですか」短波無線のことは、マーナには教えていない。
「ああ、そうだ。知っている。向こうの片田商店が言うには、今夜カレクトのターリ寺院で勝利を感謝する儀式が行われるそうだ」
「そうでしたか」
マーナがカレクトの様子を想像する。
勝利を神に感謝する『奉告の儀式』、バラモン僧による祈祷、鐘楼の鐘が賑やかに鳴らされる音、王や将軍が捧げる夥しい供物、そんな有様になるのだろう。
自分が参加できないのが、少し残念だった。
一週間後、片田達はオルダニーに戻って、次の作戦の準備をしていた。次は上陸戦になる。
金口三郎艦長が上甲板のマーナを呼び止めて言った。
「困ったことになったぞ、マーナ」そういっているが笑っている。
「困ったこととは、なんですか」
「先日の戦勝を知ったカレクトが義勇軍を編制するそうだ」
「義勇軍って、なんですか」
「カレクト人の軍隊だ。マーナヴィクラマ王子に続け、俺達もポルトガルとの戦に参加するぞ、という志願兵がたくさん出て来たそうだ」
「それは、父も困っているでしょうね」
「まあ、そうだろうな、とりあえず三百人だけ選抜して、次の便でオルダニーに来るそうだ」
「そうなんですか、どの将軍が率いて来るのですか」
「将軍は、マーナ、お前さんだそうだよ。補佐官は来るらしいがな」
「僕、ですか」




