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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
628/641

信濃丸 (しなのまる)

 マルセイユから連絡がくる。

 フランスのガレー船団三十隻の準備が整い、リスボンに向けて出発した、という知らせだった。

 フランス国王ルイ十二世が安堵あんどする。少なくとも、一つはうまくいっている。


 彼の艦隊はマルセイユでカトリックの連合艦隊と合流し、百六十三隻の大艦隊になる。さらに艦隊はブルターニュの港、ブレストに入港し、戦闘前の最後の補給を行う予定だ。

 そこで、ブルターニュの大型帆船、『マリー・ラ・コルドリエール』、『プティット・ルイーズ』などと合流することになっている。


 そして、コンデ公がやってくる。

 フランス国内では、カトリック教徒と新教徒が分かれて争っている。いまのところ、国王は中立だった。


陛下へいか、心苦しゅうございますが、御暇おいとまいにまいりました」

「うむ、出港の知らせを聞いたのだな」

「はい、数日前に全艦が無事出航されたとのこと、まことに祝着しゅうちゃくに存じます」

「それについては、わしも満足しておる」


「しかし、どうしてもブロワを去るというのか」王が、もう一度だけ尋ねる。ブロワとは、ルイ十二世の王宮があるブロワ城のことだ。

「はい、陛下もお聞き及びと思われますが、カトリック教徒共は、全土で新教徒を迫害しております。もはや、許しがたい事態です」


 ルイも、そのことは知っている。よくいままでコンデ公が我慢していたと思うほどだ。


 コンデ公の方にも、思惑がある。ひとつには、ガレー船団の出航まで待つことにより、国王に恩を売るということだった。

 しかし、それだけではない。コンデ公は、このあとどのようなことが起きるのか、国王よりよく見通せている。

 そのとき、国王を新教徒側に引き寄せたいと考えていた。


「陛下がろしす国土を乱すのは心苦しいのであります。けれども、カトリック教徒の横暴には、もはや我慢がなりませぬ。お許し下さい」

 そういって、コンデ公が退出していった。




 フランス王国のガレー船団は十二日をかけて、リスボンに到着する。そこで総司令官のヴァスコ・ダ・ガマを交えた作戦会議が行われ、翌日に出発し、カレーに向かう。


 彼らの作戦は、大体このようなものだった。


 フランス本土の北西端、ブレストの港で風を待ち、西風が吹き始めたら、イギリス海峡に進入する。この時、船団は分散して航行し、敵の艦隊に捕捉されないようにする。

 敵がオルダニー島に持つ軍艦は三隻だけしかない。大部分が島にたどり着けるであろう。


 オルダニー島に接近したら百六十隻あまりのガレー船でオルダニー島を囲み、一斉に上陸して、同島を制圧する。

 彼らの艦船は風上にすすむことができるようである。そのような艦船にガレー船は太刀打ちできないが、島であれば動くことはない。


 島の西半分はイングランドの住民が居住するとのことなので、こちらは憲兵を送り鎮撫ちんぶする。東半分の片田商店領は抵抗が予想されるので、武力を持って制圧する。


 大方針はこのようなものだった。




 そして、ガレー船団がブレストに向けて北上を始めた。ガレーは一本ないしは二本のマストを持っている。そこに三角形のラテンセールを張って航行する。

 二百を超える三角帆が水平線に並んでいるのは壮観な眺めだった。


 その三角帆の群れの後方に一本の黒煙が立ち上っている。片田商店の哨戒船だった。武装の無い商船タイプの船だ。


 ヴァスコ達はこれに気付いていた。艦隊の後方に、尾行するように黒煙が立ち上っているのが見えるからだ。

 片田商店の船が黒煙を上げて航海することは、この時分には彼らも知っていた。


 知っていたが、後ろから追跡してくるだけであれば、実害はない。そう思って放置していた。

 彼らは無線機というものを知らなかった。後方の船が随時艦隊の数や位置をオルダニー島に送信しているなどは、思いもしない。


 この船の名前を『信濃丸しなのまる』という。片田商店の商船は、たいがいが就航する航路の先にある国名を採っていたが。この船は日本の旧国名から採った。

 もちろん、『日露戦争』で、日本海海戦に向かうバルチック艦隊を発見した船から、名前をいただいている。


 いま、信濃丸はカトリック連合艦隊を追尾しながら、刻々と、その位置や速度をオルダニー島に報告し、片田艦隊の目となって働いている。


 本家の信濃丸は一九〇〇年に竣工しゅんこうし、除籍になったのが一九五一年という、半世紀以上もの長寿をまっとうした船だった。

 一九〇〇年というと、明治三十三年である。当初はシアトル航路の貨客船かきゃくせんとして就航した。

 一九〇四年に日露戦争が始まると、陸軍の兵員輸送船として徴用される。

 私事だが、筆者の曽祖父も日露戦争に従軍しているので、もしかしたら信濃丸の客となっていたかもしれない。

 翌年、こんどは海軍に徴用され、簡易な兵装を行い、仮装巡洋艦として哨戒任務を担う。


 そして、一九〇五年五月二十七日午前二時四十五分。五島列島西方で、ロシアのバルチック艦隊に接触し、これを無線で連絡する。


 日露戦争後は、再び貨客船に戻る。

 一九三〇年、艦齢三十年で、貨客船としての利用に限界が来て、蟹工船かにこうせんに改装される。

『蟹工船』とは、小説の題名ではない。

 蟹漁船なのだが、大型で、北洋で蟹漁をしながら、船内でカニ缶詰を作ることが出来るようになっている。小林多喜二の小説『蟹工船』は、そんな船の中で過酷な労働を強いられる船員がストライキを起こす話である。

 プロレタリア文学の代表作と言われているようだが、思想的なものを脇に置いて読んでも、読みごたえがある。まるで、アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』を読んでいるようである。


 話がそれた。

 太平洋戦争中には、信濃丸は輸送船となった。マンガ家の『水木しげる』が陸軍兵士として乗船した。彼が言うには、このころの信濃丸は『浮かんでいるのが不思議』なほどに老朽化していたそうだ。

 戦後は復員船ふくいんせんとして、大陸からの帰国に使われ、ついに一九五一年に船籍を解除される。


 信濃丸より長期の就役期間を持つ船としては『海王丸(初代)』の五十九年、『日本丸(初代)』の五十四年というものがあるが、両者とも練習船であった。

 大事に使用されていたので長寿だったのだろう。それぞれ、富山と横浜で保存されている。


 実用船としては、初代南極観測船の『宗谷そうや』が四十年だ。信濃丸に次ぐ長さかもしれないが、確かめてはいない。宗谷も東京湾の『船の科学館』に保存されている。


本日は外出するので、予約投稿です。

不備があった場合には、明日以降に修正させていただきます。


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