リスボン港
イギリス海峡の島、オルダニー島に侵攻するための連合軍がポルトガルのリスボン港に集結しつつあった。一五〇六年五月のことだ。
これまでのところ、集まったのは以下のとおりだ。
ポルトガル 六十隻
スペイン 四十隻
教皇庁 二十隻
ジェノヴァ 十隻
マルタ騎士団 三隻
これに、フランスの三十隻が加われば、総計百六十三隻になる。この大集団でオルダニー島に殺到し、八方から岸に寄せて戦闘員を上陸させ、占領しようというのだ。
中世末期にこれほどの艦隊が集まるだろうか、と思うかもしれないが、集まる。
例えば『レパントの海戦』は一五七一年で、物語の時代より六十五年後だが、キリスト教徒側は主力のガレー船だけでも二百隻以上集めている。この数字は、同時に動員した百隻近くの補助艦艇を含んでいない。
それより少し前、一五三八年の『プレヴェザの海戦』でもキリスト教国連合は百六十隻のガレーを並べている。
河口近くにリスボン港があるテージョ川は、河口の手前で湖のように広がった水域を持っている。この水域のことを『藁の海(Mar da Palha)』と現地の人は呼んでいる。
なぜそう呼ぶようになったのか、諸説があって、本当の所はわからない。
ただ、水深が深く、艦隊を集結させるには絶好の地形だったので、大航海時代以降、ポルトガル海軍の主要拠点となっている。
物語の時点でも、上記の多国籍艦隊が集結中である。神聖ローマ帝国の艦艇は参加していない。
ハプスブルク家の当主、後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世は、父の崩御に伴いローマ王という称号を手に入れていたが、ヴェネツィアの妨害でローマに行くことが出来なかった。
前代までの皇帝はローマに赴き、ローマ教皇の手により戴冠していたが、それが出来ないでいたのだ。
マクシミリアンは結局ローマで戴冠式をおこなうことなく、二年後に神聖ローマ皇帝を名のることになり、以後の皇帝もこれに倣うことになる。
そんな状態なので、とても大艦隊を出そうという気分にはなれなかったのだろう。
艦隊集結は五月となっていたのだが、フランスが遅れている。準内乱状態だったからだ。それでもフランス国王は五月中には、なんとか間に合わせると言った。それで各国が待っている。
国家連合の艦隊集結がおくれることは、よくある。
例えば『プレヴェザの海戦』では、キリスト教連合軍はコルフ島に集結することになっていた。やる気に満ちていたヴェネツィア艦隊が到着したのは一五三八年の三月だった。八十二隻が揃った。
そして、遅れて来た法王庁海軍がコルフに到着したのは六月だった。
それなのに、総指揮官であるアンドレア・ドーリアが率いるスペイン艦隊が到着したのは九月八日だった。ヴェネツィアは半年ほど待たされたことになる。
プレヴェザの時にはジェノヴァはスペインに属していたが、一五〇六年時点ではジェノヴァはフランスの影響下にあった。若き日のアンドレア・ドーリアも、今回集まった十隻のジェノヴァ軍艦のどれかに乗船しているであろう。
ヴェネツィアは、東方交易をめぐってポルトガルと対立していたので、参加していない。
ガレー船には士官と戦闘員以外に、多数の漕ぎ手が乗っている。この漕ぎ手であるが、イタリア半島の多くは志願制であった。教皇領、ジェノヴァ、そして今回は参加していないがヴェネツィアのガレー漕ぎ手は志願制だった。
仕事は辛かったであろうが、各員がわずかではあるが自分の商品を船に積むことが許されていた。それで給料以外に海外での商品売買で利益を得ることが出来たので、志望者に不足することはなかったという。
スペイン、ポルトガル、フランスなどは囚人や戦争捕虜が多かったそうだ。
イスラム教徒のガレー船は奴隷化したキリスト教徒を使うことが普通だったとされている。
ガレー船の囚人や奴隷などは、二十四時間座席に鎖でつながれていた。食事をするのも、寝るのもその場から動くことはできない。
当然、不潔な環境になった。
ジェノヴァの船も、教皇庁のガレーも、もう一カ月以上リスボンに停泊している。
後のイギリス海軍であれば、このようなときには、訓練に訓練を重ねて水兵を鍛えたのであろうが、そんな習慣は、まだない。
ただ、停泊しているだけだった。退屈である。
退屈になると、人間は普段気にならないことも、癇に障るようになる。
イタリアから来た軍艦の戦闘兵や漕ぎ手から不満が出てくる。
風上のポルトガル・ガレーの悪臭を何とかしろ、と言い出した。この時期のリスボンは北西風が卓越している。
リスボンはテージョ川の北の岸にある。王宮も市街も川沿いにあった。その王宮横のアーセナル付近にポルトガル船が並んでいる。
それに対してスペイン、イタリアなどの同盟軍の船はテージョ川の対岸、南岸に置かれていた。現在のアルマダ地区の岸である。
王宮から見ると川を挟んで、南側にあたる。
彼らがこの位置に置かれているのは、首都防衛のためだった。同盟軍とは言え、他国の軍艦だった。王宮付近に多数を接岸させるわけにはいかない。
数日ならそれでもよかったが、すでに碇泊は一カ月を超えている。教皇庁やジェノヴァの自由人乗組員は、夜毎に目の前のリスボンの紅灯を目にしているのだ。
やれ、ガレーの悪臭にポルトガル料理のニンニクが混ざると、吐き気を通り越して、めまいがする。いい空気が吸いたい。上陸させろ。
などと訴えた。イタリアだってローマ時代から料理にニンニクを使用している。なので、最後の言い分が本音だろう。
両国の司令がポルトガルと相談し、一日五隻ずつの艦を北岸に接岸することにして、乗組員の上陸を許可した。
スペインの戦闘員や士官にも同様の配慮をする。
彼らはリスボンに上陸すると、まず市場に行き持参したわずかな商品を売って現地の貨幣に替える。金を手にして酒場に行きホラ話の花を咲かせる。そして最後には、どこかに紛れ込む。
船乗りが陸ですることは、どこの国も同じだ。
唯一おとなしかったのはマルタ騎士団の三隻だけだった。




