パリ大学
「陛下、参上いたしました」入って来た男が言った。コンデ公である。
やや細面の三十代の男性で、淡い茶色の髪と短い髯を整えている。
慎み深く、責任感の強さを感じさせる風貌だった。
「ヴァシーの件は聞いておるか」ルイ十二世が言った。
「承知しております。私の方にも使者が来ております」コンデ公はフランスの新教徒達の首領であったので、現地の新教徒達は知らせたものだろう。
「わしはどちらの側に立つ者でもない。私が願うのはフランスの統合である」国王が言った。
「はい、それは承知しております。ですので、むやみに兵を動かしたりは、いたしませぬ」
「うむ、よく言った。わしにしばしの時間をくれ」
「もちろんでございます。私共の兄弟たちのことは、おまかせください」兄弟というのは新教徒達のことだ。
「既にギーズ公にはブロワ城に出頭するように使者を出してある。彼が来たら何があったのか、確かめることにする。その時は同席してくれ」
しかし、ギーズ公はブロワに来なかった。かれはヴァシーから、新教徒の強い街を避けて、パリに入城した。
『ヴァシーの虐殺』が起きたのは三月一日だった。ブロワのルイ十二世の元にその知らせが到着したのが、三月十日、ギーズ公がパリに入ったのは三月十六日だった。
当時のパリは、パリ大学を中心とした、フランスのカトリックの牙城だったといえる。
パリ大学は、一二世紀頃に設立された、歴史の長い中世大学のひとつだ。現在は無い。ソルボンヌ大学などの複数の大学に分割整理されている。
片田達の時代には、パリ大学は四つの学部に分かれていた。神学部、教会法学部、医学部、文学部の四つである。
文学部は、例えて言うと現在の四年制大学に相当する学部で、学士を育てている。他の三学部は大学院にあたり、博士を育成する。
当然ながら、神学部で教える神学とはカトリックのことである。
パリに入城したギーズ公は英雄として迎えられた。ギーズ公は『ダビデ』になぞらえられた。ダビデとはペリシテ人と戦って勝利し、エルサレムに建都したイスラエル人の王である。
旧約聖書に書かれている。カトリックでは旧約聖書も聖典として採用されている。
ギーズ公がパリ大学の大講堂で凱旋演説をぶちあげた。
「われわれの大陸に幽霊が這いまわっている。新教徒という幽霊だ。
国々はこの幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結ぶであろう。
教皇と皇帝、フランス、スペイン、ポルトガル、イングランド、イタリアの諸国達だ。
我々は、これに呼応して新教徒という名の邪教徒を国外に追い出さなければならない。……」
ギーズ公に扇動されたパリのカトリック信者らが、新教徒の墓地に殺到し、埋葬されていた新教徒の遺体を掘り起こした。いやがらせだった。
当時、カトリックと新教徒の埋葬儀式は異なっている。
カトリック信者が亡くなった場合、彼は司祭によって聖別され、教会敷地内の墓地に埋葬される。
しかし新教徒の場合は、教会に埋葬することは許されていなかった。そのため、彼らは市外につくった彼ら専用の墓地に埋葬されていた。
それを掘り出したのである。
カトリック支持の有力者のなかでも穏健派だったモンモラシー公が新教徒と会談を持ち、暴発をいましめ、しばらく礼拝も中止するように、となだめた。
新教徒達はそれに従い、掘り出された遺体を埋め戻したが、再度掘り出す不埒者があらわれ、イタチごっこになった。
三月二十二日には、パリ市街のいたるところで、銃声が響いた。殺人ではなく、威嚇が目的だった。
ギーズ公の『演説』を受け、フランス各地で、カトリックによる新教徒の集団虐殺事件が始まっていた。
サンス、カオール、トゥール、オーセール、カルカソンヌ、アヴィニョンなどの町だった。
ほとんどの場合、虐殺は説教者、知事、軍隊の隊長などの権力者によって扇動された
対する新教徒側は、カトリック教徒が重視するもの、例えば、聖遺物、教会、芸術品を破壊していった。
ルイ十二世が煩悶した。国王直属の軍だけでは、どうにもならなかった。三か月後の六月には、オルダニー島のカタダ・ショーテンに海軍を送る予定で準備中だった。この重要な時に、何という事をしでかしてくれたのか。
各地の被害を知ったコンデ公が、国王に面会を申し込む。
「早くなんとかしていただかないと、被害が増えるばかりです。新教徒といえども、国王の臣下であることには違いありません」
「そうだ。余自らがパリに行こうと考えている」
「パリに、ですか。それは危のうございます。ギーズ公に捕らわれてしまいます」国王を失ったら、コンデ公が賊軍になる。
「では、どうすればよいと思う」
「どこか、パリの近郊でギーズ公と面会なさるというのは、いかがでしょう。例えばサン=ジェルマン=アン=レーならば、背後の森に私の兵を伏せておくこともできます」
「サン=ジェルマン=アン=レーか。いいが、あそこにいくにはパリを回っていかなければならぬな。それならばフォンテーヌブローではどうだろう。あそこは狩猟用の小さな城館があるばかりだし、すぐ隣にトリニタール修道院がある。会談場所としてはいいだろう」
「フォンテーヌブローならば、より広い森が広がっていますし、よろしいのではないかと考えます」
ルイ十二世が、コンデ公の軍に守られて、フォンテーヌブローに向かう。当時のフォンテーヌブロー城は、いまのような広大な敷地ではない。小さな狩猟用の館があるばかりで、周囲を森に囲まれていた。




