ヴァシーの虐殺
一四九四年に『第一次イタリア戦争』を始めたフランス国王、シャルル八世の居城はアンボワーズ城だった。
シャルルはイタリアから帰国した時に膨大な戦利品・美術工芸品に加え、イタリア人建築家や技師、職人を連れ帰って来た。
そして、アンボワーズ城をイタリア風に改築し、ルネサンス庭園で囲んだ。
これがフランス式の幾何学的構成の庭園の始まりだとされている。
ベルサイユ宮殿の庭園や、パリのテュイルリー庭園などがフランス式庭園だ。
次のフランス国王、ルイ十二世は、アンボワーズ城を居城にしなかった。彼が宮廷を置いたのは、ロワール川を三十キロメートル程さかのぼった、ブロワ城だった。
ブロア城が、彼の生地だったことが一番大きな理由だっただろう。
それ以外にも、シャルル八世が若くして事故死したため、アンボワーズ城の前王の宮廷は健在だった。そこに入って行くことは望ましい事ではなかっただろう。
要するに、『前王の影』から距離をとりたかった。
ルイ十二世は、優等生タイプだった。彼が王としてなそうとしたのは法整備と財政再建だ。その目的を達成するためには、アンボワーズ城の華美な雰囲気も邪魔だっただろう。
現在残されているブロワ城に、ルイ十二世の面影を見て取ることが出来る。
ブロワ城は、中庭を囲むようにして菱形をしている。そのなかで北東の翼がルイ十二世時代の翼だ。そこだけが煉瓦積の赤茶けた色をしている。
彼の王政を象徴しているようだ。
なお、北西の翼はフランソワ一世時代のもので、南西翼はさらに時代が下り、十七世紀の物だ。
どちらも、イタリア風の白い壁になっている。
そのルイ十二世の宮廷であるが、ここでも新教徒の貴族が増えていた。彼は数えていないが、宮廷貴族の半数近くが新教を信じているのではないかと思う。
彼の宮廷で舞踏会をおこなっているのは、着飾った男女ではなく、官吏だった、新法案や戦争の予算書類を持った役人が走り回っている。
彼らの多くも新教徒だった。
「陛下、よろしいでしょうか」一人の高官が走り回る官吏を監督するルイに話しかける。
「なんだ」
「東部のヴァシーという町で事件があったようです」
「ヴァシーとは」
「パリの東、トロアとナンシーの間にある町です」
「事件と言ったな、どのような事件なのか」
「ここでは、申せません、新教徒にかかわることです。連絡してきた使者を控えさせておりますので別室で」
「わかった、わしの執務室に来い」
ルイの執務室。
「で、どうしたのだ」フランス王が使者に尋ねる。
「東部のヴァシーで、ギーズ公が新教徒の集会を襲撃しました。新教徒五百人が集まっていた納屋を襲撃し、五十人が死亡したそうです」
「なぜ、襲撃などしたのだ」
「彼らが教会と称していた納屋が町の中にあったからです。新教徒の礼拝は赦されていましたが、礼拝は町の外で行うこととされていたからです」
「新教徒達は抵抗したのか」
「抵抗なんてとんでもない。礼拝の最中です。武器どころか、農具も持ち込んでなかったでしょう」
「ギーズ公の方は」
「最初からそのつもりだったのでしょう。剣や槍以外に銃も使ったそうです」
「それはよくないな。ヴァシー周辺ではどうなっている」王が尋ねる。
「いま、周辺に使者を派遣しましたが、向こうから入って来る情報からでは、トロアとランスの新教徒達が不穏な動きをしているとのことです」
『ヴァシーの虐殺』という、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の烽火を挙げた事件である。史実では一五六二年三月であるが、これも半世紀近く前倒ししている。
「ギーズ公をブロワに出頭させるよう、使者を出せ」ルイ十二世が言った。
「それから、コンデ公を呼んでくれ、彼ももう知っているであろう」
コンデ公とは新教徒派の首領だった。ブルボン家の一門である。
ルイ十二世はカトリックであったが、人文主義の薫陶を受けた宮廷文化の中で育った。当時のフランス上流階級はそのような傾向を持つ一門も多かった。
なので、新教徒を否定するものではない。しかし、ギーズ公のように異質なものを無条件に排除しようという考えを持つ一門も同じくらいの数を数えた。
彼らは実力行使を辞さない。
現代の合衆国にも似た構図があるかもしれない。かつて芽生えたばかりで弱かったプロテスタントが新大陸に渡り、支配勢力となる。その優位が揺らぐと、保守といいながら既得権益を守ろうと、かつてヨーロッパ大陸でカトリックが行ってきたことと同じことを始めるのだ。
ルイ自身はフランス国王として、カトリック側に立つでもなく、新教徒側に組することもなく、王国の統一を求めている。
内乱だけは避けたい、それが王としての絶対的な立場である。
いまコンデ公が、その領地に帰ってしまえば、それはカトリックとの戦争を準備する、という意味になる。
なんとか、彼をひきとめなければならなかった。




