新教徒 (しんきょうと)
この時期のフランスの国王が優等生のルイ十二世であることは、以前に書いた。
そして、ルイが二十五年連れ添った妻、ジャンヌ・ド・フランスと離婚し、アンヌ・ド・ブルターニュと結婚したこともだ。
この離婚が簡単ではない。カトリック教徒には、原則として離婚が認められていない。まして、一国の王だった。この場合にはローマ教皇による、ジャンヌとの結婚が元々無効であったという裁定が必要だった。
一四九八年当時の教皇はアレクサンデル六世だ。
当然簡単にはいかない。
ルイは交換条件として、フランス国内のヴァランス伯爵領をアレクサンデル六世に差し出す。教皇の息子のチェーザレ・ボルジアがヴァレンティーノ公爵となる。
さらに、フランス王家とチェーザレの縁戚関係を結び、 チェーザレとナバーラ王の妹シャルロット・ダルブレとの結婚も取り持った。
彼はチェーザレ・ボルジア・ディ・フランチアと称することになる。
これらにより、ボルジア家が王家と結びついた。
ずいぶんと高くついたもんだ。
チェーザレはイタリアに戻り、イタリアの中部をかき回す。それに乗じてルイがミラノを征服し、イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)を捕える。
彼はイザベラ・デステの妹、ベアトリーチェの夫だった。
ミラノでイル・モーロに仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチはこの時の戦争を逃れ、イザベラの住むマントヴァに避難している。
イザベラもレオナルドも、教皇アレクサンデル六世に好意は持っていない。
一方のフランス。この時期までに、フランスの新教徒も増えている。宮廷は人文主義者を多く抱えていたので、新教徒にも寛容だった。
商人や職人だけではなく、この頃までには貴族の新教徒も増えていた。
筆者は、史実よりも六十年くらい早く新教を広めている。サヴォナローラと、航空機から撒く、彼の言葉を書いたビラのおかげだ。
史実では一五〇六年には、まだプロテスタントという言葉もユグノーという言葉も登場していない。
『プロテスタント』が使われるのは一五二九年のシュバイアー帝国議会の時からだし、『ユグノー』は一五五〇年頃からだ。『ユグノー』とはカトリック側から新教徒を呼んだ蔑称だった。
では、その新教は、どのように広まったのだろう。
再び十九世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレの『フランス史』から要約して引用してみよう。
ミシュレはカトリックの家に生まれているが、自身のロマン主義的傾向からだろうか、この時期のプロテスタントには同情的である。
曰く。
フランス西部のある街に貧しい商人がいた。彼はわずかに読み書きが出来たので、自身が書き留めて置いた旧約聖書と新約聖書の文章を持っていた。
ある日曜に、広場に数人の人を集めて、彼の文章を読み聞かせた。
そして、それを聞いた人々に、「それぞれが神から賜った能力に応じて、他の人々にもそれを伝えるように」と話した。
つまり、文字が読み書きできる者は文字で、読み書きができない者は口伝で、ということだ。
そして、それらの人々が日曜日ごとに、教えを広めていった……。
曰く。
やがて多くの者が、フランス語の聖書を読み、周囲の人々にそれを読み聞かせていった。このことの道徳的効果は、大きかった。
ほんの数年で、かけ事、宴会などはすっかり消えた。悪所に通うこともなくなった。暴力や扇動的な言動も無くなった。訴訟は減っていった。
日曜日には、同職組合の職人達や、その家族が牧場や田園地帯を散歩し、みんなで詩篇や雅歌、讃美歌を謳うのを見た。
男性の歌う、強くて低い声は、聖書の偉大な言葉に重みを与えた。
女性の柔らかく哀切な声は、福音書を涙で震えさせた。
子供たちの声は、楽音を未来の天国へと昇天させていった。
カトリックは、人間を罪深いものだ、とまず定義する。ついで、善行により罪を滅ぼさなければ天国に行けないという。
罪を減ずるために、教会税を払い、日曜日のミサに出席し、聴聞僧に懺悔しなければならないと説いた。さらに教会に喜捨や『お布施』をすれば、死後すみやかに天国に行けると嘯いた。
そして、教会が語る以外の宗教は異端であり、断罪され、改心しなければ火あぶりの刑に処せられた。
中世のカトリックは、人々に罪深さと恐怖を植え付けた。
それに対して、新たな宗教はどうであろう。聖書の言葉をそのまま自分たちの言葉で読み、キリストの教えに直接触れる。
彼らはそこで、罪深さや恐怖ではなく、本来のキリスト教を見つけたのだろう。
彼らの見つけた宗教は自由だった。自由に解釈できた。それは一方で、人の数だけ宗教ができるともいえる。一種の危険性を孕んでいた。
そして、新しい宗教は、瞬く間に広まった。




