信託 (しんたく)
「では、この借用書一枚の、現在の価値は四十二万リーブル、ということになるわけだな」気を取り直した教皇アレクサンデル六世が言った。
「あと八枚ある、といっていたな。全ての額面の合計はいくらになる」
「お手元の二万と合わせて二十四万リーブルになります」
「レオナルド、二十四万リーブルを、みな二百年として計算してみよ」
「五百と四万リーブルになります」
「その一割が遅延損害金として、約五十万リーブルか。金に換算すると、どれくらいになる、レオナルド」
レオナルド・ダ・ヴィンチが黒鉛棒を使って筆算する。黒鉛片を木片で挟んだ鉛筆の原型といえるような筆記具だ。
「金一万と四十五リブラになりますな。ドゥカート金貨ならば九十九万九千枚になります」
「と、いうことは一割の遅延損害金だけで、毎年約百万ドゥカートになるというのだな」
「そうですな」
アレクサンデル六世当時の教皇領の歳入は四十万から五十万ドゥカートくらいだったろうと歴史学者が推計している。その二倍にもなる。
当時、一ドゥカートで熟練労働者十人を一日雇うことができたそうだ。百五十パーデのドームを持つ大伽藍も夢ではない。
レオナルドは当時のフランスの歳入を二百万リーブルと見込んでいる。その四分の一もの金を、フランスがだまって毎年渡すわけはない。そのことをレオナルドは分かっているが、教皇と騎士ベレンガーリオは分からないのかもしれない。
なにしろ、「子午線より西と南の全ての土地を、スペインに与える」と言ってしまう教皇である。子午線の南にある土地などは無い。あるとすれば、大気と宇宙だけだ。
スコラ学には優れているかもしれないが、一般的な教養や数には弱い。
さもなくば、教皇がフランス国王との、なんらかの交渉のカードに使おうとしているのかもしれない、そんなこともレオナルドは思った。
「ベレンガーリオよ、クレメンス五世が二百年前にテンプル騎士団を赦免していた事実の公表、およびキリスト騎士団のテンプル騎士団継承を承認してもよい。よいが、条件がある」
「なんでしょう」
「汝ら、キリスト騎士団は、この借用書をもって、フランス王国から債権を取り立てようなどとは考えていないな」
「はい、そのようなことは考えておりませぬ。借用書は、あくまでもフランス国が我々を認めない時の道具と考えています」ベレンガーリオが言った。
「よかろう、では、この借用書すべてをローマ教会に『信託』せよ」
「はっ、『信託』とはなんですか」
「預ける、ということだ」
「預けて、どうなさいますか」
「フランスに遅延損害金を請求して、それでサン・ピエトロ大聖堂の再建資金にあてる。神も、非業の最後を遂げたテンプルの騎士達も喜ぶであろう」
本当に、請求するつもりなのだ。レオナルドがそう思った。ローマでの彼の仕事が、なかば成り立った。
「では、半分でもいいぞ、わしが五枚で、そちが四枚ではどうじゃ」教皇がいった。
「私の方は、お守り代わりに持つようなものですから、四枚でも結構です」
「よし、ではそういうことにしよう。どれでも四枚選べ」
ベレンガーリオが額面金額の少ない四枚を選んだ。気が変わらないうちに、と考えたのだろう。教皇が祐筆を呼び、借用書五枚の『預かり証』を作成させてベレンガーリオに押し付けた。
『信託』というのは、財産管理や処分を包括的に他者に委ねる仕組みのことである。
『ローマ法』には、遺言によって財産の管理・処分を他者に委ねる『フィデイコミッスム(遺贈信託に類する制度)』がある。そこから教皇が考え出したのだろう。
アレクサンデル六世が、嬉しそうに借用書を箱に納め、レオナルドとベレンガーリオを下がらせた。
レオナルドが中庭に出る。今日もよい天気だった。六月に入ったばかりのローマの日差しは、すでに真夏のようだった。濃い色の石畳が焼けるような光を反射し、芝は水を欲しがっているようだった。
芝生に置かれた、一抱えもありそうな大理石の鉢に、ローズマリーが植えられている。日差しを受けて、所々青紫の花を咲かせている。
自分の部屋に戻った。一枚の絵が画架に載せられている。縦六十センチメートル、横四十五センチほどの作品だ。八割ほど彩色されている。
この時期のレオナルドは、スフマートという重ね塗りの技法を使っているため、一つの作品を作るのに長い時間がかかっている。
絵を完成させることよりも、技法の実験に関心があったらしい。そのため、完成しないことも多かった。
しかし、この作品はあまり重ね塗りをしていないようだ。完成させることが目的の絵らしい。
右を向いた女性の絵で、頭に金色のサークレットを被っている。手にはヤシの枝を持っていて、なにかを指さしているようだ。
背景は暗く、光は左上から差し込んでいる。
どうも、頼まれたイザベラ・デステの彩色肖像画のようだ。イタリアにいる間に完成させようとしているのだろう。
教皇とフランスの決裂が決定的なものになったとき、彼はイタリアから離れるつもりだ。
レオナルドが画架を窓の方に寄せて、絵筆を取った。




