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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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紙とインク

 教皇アレクサンデル六世がレオナルド・ダ・ヴィンチに与えた部屋は東向きで、午前中によく日が差し込む。

 いま、レオナルドは机に座り、左手でペンを握り、右手で、文庫本ほどの大きさの本を読んでいた。

 レオナルドは左利きだった。


 紙に向かって、ペンを走らせる。鏡文字だ。


Legum servi sumus ut liberi esse possimus.

(我々は法のしもべである、そうしてこそ自由でありうる。)


 右手に持っているのは、デジデリウス・エラスムスがヴェネツィアで出版した格言集だ。ラテン語とトスカーナ方言で書かれている。


 レオナルドが書き写したのは、紀元前のローマの政治家・文筆家・哲学者、キケロの文章だと、格言集の解説にある。

 キケロは弁護士でもあった。この格言は『プブリウス・クィンティウス弁護』として知られる。紀元前八一年のことだ。


 レオナルドが手稿コーデックスに使用している紙をラグ紙という。現代では木材を原料とした紙が一般的だが、当時の紙の原料はボロ布だった。使い古した木綿布や亜麻あま布をほぐして、手漉てすきで紙を作っている。

 イタリアのアンコーナ州の町、ファブリアーノに製紙工場が出来たのは一二七六年だそうだ。一二八二年には『透かし』が考案されている。

 レオナルドの手稿にも製造元を表す『透かし』があり、手稿の成立年代や順序の復元に利用されているそうだ。

 ライオンの『透かし』はフィレンツェの製紙工場で多く使われた。鳩や鳥はファブリアーノの製紙工場、鷲はミラノ製だという。


 その紙にインクで文字を書く。当時のインクは『鉄胆汁たんじゅうインク』という。

 オークの木に虫が卵を産み付ける。樹木のその部分が異物反応を起こして、異常成長し、『こぶ』になる。『こぶ』の部分には多くのタンニン酸が含まれている。

その樹木の『こぶ』を粉末にして水かワインに数日間浸して『タンニン液』を作る。

 そこに硫酸鉄を加える。

 硫酸鉄は、希硫酸に鉄を入れてもいいし、あるいは緑礬りょくばんを使ってもいい。緑礬は鉱山で採れるため、レオナルドの頃でも薬局で取り扱われていた。

止血や防腐作用がある。


 しだいに鉄とタンニン酸が反応して、黒い液体になる。

 さらにガム・アラビックというアカシアの樹液をほんの少量加えると、インクの流れが滑らかになり、乾いたとき良く紙に定着する。


 レオナルドの紙とインクについては、これくらいにしておこう。




 レオナルドは『法』について考えている。当時の法律では、まず都市や地方の慣習法が優先された。あるいは領主が法を定めていれば領主法に従う。

 それらとは別に『教会法』と『ローマ法』も知られていた。

 宗教的な事案には教会法が適用される。

 慣習法で判断が難しいときにはローマ法も参考にされた。つまり法律の寄って立つところとして扱われている。このようなものを『法源ほうげん』という。


 ローマ法には『ローマ法大全たいぜん』という法律書がある。東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス一世が編纂させたものだ。ヴァチカン宮殿にいれば、その図書館で読むことができる。

 読むことはできるが、とにかく偉大すぎる法律書だった。

 ローマ法大全は、以下の三つをあわせたものだ。

勅法彙纂ちょくほういさん』は皇帝が発布した法律をまとめたもので、全五十巻もある。

学説彙纂がくせついさん』は法学者の法的意見や解釈を集成したもので、これも五十巻十五万行ある。

法学提要ほうがくていよう』は親切なユスティニアヌス帝が初学者のためにまとめさせた入門書だが、残念なことにレオナルドの時代には失われている。再発見されたのは十九世紀になってからだ。


『大全』はレオナルドの手に余る。


 彼が求めているのは『法学提要』のような根源的でシンプルなものだ。

例えば古代ローマ最初の成文法『十二表法じゅうにひょうほう』のようなものがあるといい。ところが、それも失われている。

現在の『十二表法』は、さまざまな古文献中の引用から復元されたものだ。


『法学提要』も『十二表法』も使えないので、レオナルドはラテン語格言集から、その法思想を抽出しようとしている。


 『十二表法』は高校の世界史でも出てくる有名な法律だが、誤訳に近い。原語では


 Lex Duodecim Tabularum


 と書く。tabula は『表』という意味もあるが、この場合には『板』という意味が歴史的には正しい。

 板に書かれた法律だったからだ。


 この法律が制定される前のローマでは、法知識は貴族パトリキに独占されていた。このことについて平民プレブスは不満だった。

 犯罪を処罰したり、財産をめぐった係争を解決する裁判の時に、貴族によって恣意的しいてきに法律が解釈されているのではないか、という疑いを払拭ふっしょくできない。


 そこで紀元前四五〇年、古代ローマで初めての成文法が制定された。

 ただ制定されただけではなく、誰でも読めるように板に書いて公共の場所に掲示された。その板は銅板だったとも象牙板だったともいわれている。

 掲示された場所は、恐らくフォロ・ロマーノだろう。

 

 このようないきさつなので、『十二ばん法』のほうがいいと思う。だが、すでに用語として定着してしまっている。そこで十二表法で通すことにする。


 法文は分野ごとに分けて十二枚の板に刻まれた。

第一、第二表は裁判の手続きについてだ。

第三表は法の執行について書かれている。


以下、

表四は家長の権利と義務、

表五は後見と相続、

表六は取得や占有の権利について、

表七は土地の権利、

表八は不法・犯罪行為、

表九はおおやけの事柄に関すること、

表十が神聖なことに関わること、

表十一、十二は補足法だ。


 次回は、十二表法に書かれていることを具体的に見てみる。


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