ベルヴェデーレ
翌日、レオナルド・ダ・ヴィンチが教皇宮殿を訪れる。宮殿はサン・ピエトロの大聖堂と広場の北側にある。
何度も増改築がなされて現在の姿になった。
西暦一五〇六年のレオナルドの時には、システィナ礼拝堂はすでに出来ている。宮殿は、その東側の四角い部分だ。『ラファエロの間』や『ボルジア家の間』があるあたりだ。
レオナルドが面会している教皇は、アレクサンデル六世だった。史実では、この年に教皇位にいるのはユリウス二世である。
「よく来てくれた、レオナルドよ。末永くローマに滞在してほしい、その間の年金は十分に提供しよう」
「寛大なお言葉、ありがとうございます。なにか、お役に立てる仕事があれば、お命じください」レオナルドが応える。
「なにもしなくともよい、宮殿に部屋を与えるので、気の向くままにしておればよい」
レオナルド・ダ・ヴィンチは五十四歳前後になっている。すでに名声を得ていた。レオナルド・ダ・ヴィンチを抱えているだけで名誉になる。
「ありがたきことです、しかし、それでは申し訳ありません」いちおう言ってみた。
「もし、退屈を持て余すようであれば、そうじゃな。ポンティーネの地の排水計画でも考えてみて欲しい。無理にとは言わぬぞ」
「さようですか、では、一段落しましたら、一度下見に行ってまいりましょう」
ポンティーネとはローマの南五十キロメートル程のところにある湿地帯のことだ。ティレニア海と山との間に広がっている。長さは海岸線沿いに四十五キロメートル、幅は場所にもよるが、六キロから二十キロ程もある。
ルネサンスの頃から、なんとかこの湿地帯を干拓し、農地として利用できないかと試みられてきた。
史実では、一五一五年、ジュリアーノ・メディチがローマに滞在していたレオナルドに干拓計画の設計を依頼しているという。
その後、十八世紀、十九世紀にも、この地の干拓が試みられたが、成功しなかった。
この地の干拓に成功したのは、二十世紀になってからだ。やりとげた男の名をベニート・ムッソリーニという。
一九二二年にムッソリーニが国家ファシスト党を率いてイタリアの政権を掌握する。
ファシズムとはイタリア語の『ファッショ』に由来する。束、集団、結束という意味だという。
国家を一つの『束』という共同体ととらえ、全体主義国家をめざした。
ムッソリーニは二八年にポンティーネ開拓の法案を提出し、これを開始する。堤防を作り、水路を掘り、ポンプ場を設置して広大な土地を干拓していった。
ムッソリーニ自身が上半身裸でシャベルを手にしたり、収穫期に小麦の脱穀をしたりした。
これらが、当時のプロパガンダとして、写真や映画に残っている。
これをイタリアでは「小麦戦争」と呼んだ。
十年をかけて、広大な農地と、ラティーナ、サバウディア、ポンティーニア等々の新都市が干拓地にできる。
例えばラティーナを上空から見ると放射状道路と同心円道路が見られる。イタリアには珍しい計画都市だ。
大成功のように見えた。だが、それは全体主義の象徴でもあった。後日譚がある。
やがて第二次世界大戦が始まる。イタリアはドイツ、日本とともに枢軸側で参戦する。
敗色が濃くなり、一九四三年に連合国軍がシチリア島を占領すると、バドリオ政権が立ち、ムッソリーニは幽閉されてしまう。
ムッソリーニ幽閉に激怒したドイツのヒトラーがイタリアに進駐し、アルベルト・ケッセルリンク元帥が半島の防衛を指揮する。
連合国軍が半島南部のターラントとサレルノに上陸する。バドリオ政権はこれと同時に休戦を宣言する。
ケッセルリンク元帥はイタリア政府の意向にお構いなく、半島に幾つもの防衛線を引き、塹壕を掘り、連合軍を迎え撃つ。
なかでも連合国軍を悩ましたのがモンテ・カッシーノを含む防衛線、『グスタフ・ライン』だった。連合国軍はこれを突破できない。
ラインはローマの東南東百二十キロメートルあたりのところに引かれていた。
ならば、と連合国軍が『グスタフ・ライン』の内側に上陸し、ローマを目指すことにする。当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルが発案した『シングル(Shingle)作戦』だ。Shingleとは屋根板とか杮板という意味だ。
ドイツ軍がグスタフ・ラインから一部の軍を割いて、これに対処すれば、そこがグスタフ・ラインのほころびになる。南方の連合国軍はそこを攻撃することになるだろう。
ドイツ軍が上陸軍を無視すれば、そのままローマに入城してしまえばいい。
連合国軍がティレニア海に面した港町、アンツィオの海岸線に奇襲上陸した。『アンツィオの戦い』である。そこはポンティーネ干拓地の西の端だった。
ドイツ軍は干拓地のポンプを止め、堤防を爆破し、干拓地を水没させた。連合国軍とドイツ軍がマラリアの蔓延する沼地で戦闘することになった。
都市は廃墟になり、家屋は爆破され、農地は海水に没し、水路は埋め立てられた。
ムッソリーニの努力が、文字通り水泡に帰してしまう。
本日は、話が大脱線をしてしまいました。同湿地は、現在では修復されています。
レオナルドは教皇宮の北端、ベルヴェデーレ館に作業場を与えられた。教皇インノケンティウス八世が建設した、比較的新しい建物だ。




