嶽山城(だけやまじょう)
師走の風に吹かれて、片田達は堺に帰ってきた。今回の航海は、安宅丸の船学校の、船員志望者達の卒業研修のようなものだった。造船志望者達も同様の卒業研修を行っていた。彼らは千石級の竜骨付きの船を作っていた。
その船は、船体はすでに出来上がっており、艤装を行っていた。
安宅丸は、艤装の過程で、どのような作業が発生するか、学生たちに記録させていた。
艤装には、どのような部品が必要か。
その部品を構成する部品は何か。
部品を作るのに、どのような作業が必要で、何日かかるか。
部品の船へのとりつけについても、どのような作業と資材が必要で、何日かかるか。
このようなことを克明に記録することにより、二隻目以降を製造するときに、どのような順番で行う必要があるかがわかる。また並行して行える作業もわかる。
畠山義就から書状が来る。話があるので嶽山城に来てほしいとのことだった。丁寧な文章だった。
嶽山城は、まだ耐えていた。もう一年余り籠城を続けていた。
政長派の攻城線を突破することは、出来そうもないので、片田も嶽山城への補給品と同様に、紀伊津から吉野川をさかのぼり、橋本から紀伊山脈を越えた。
嶽山城の搦手門で、義就からの書状を見せ、城内に案内してもらう。
「片田はるばる、ご苦労だった」
「いえ、右衛門佐様こそ、お元気そうで、なによりです」片田が言った。
「河内の水道橋が成ったそうだな、見事だ」
「はい、おかげさまで、完成までこぎつけることが出来ました」
「見てみたいものだな。それで、水道橋の水で、柏原、八尾、藤井寺に新田が開発できるようになったといっておったな。よくやった。そのようなことが大事なのじゃ」
義就は、治水や新田開発に力を入れていた。
「はい、京で飢え惑っていた者を集め、水道橋工事をさせ、その後は新田開発に携わらせています」
「それでこそじゃ。民を生かし、良く働くことが出来るようにしなければいけない」
「承知しております」
「わしも、籠城しているのでなければ、そちのように仕事をしたいものだ」
「いえ、一年を超す御籠城、お見事でございます」
「このように長くなるとは」義就も、こんなつもりではなかったようだ。
義就が嶽山城に籠城したのは、長禄が寛正に代わる年(一四六〇年)の十二月であった。この時までですでに一年が経過している。義就はこの後、寛正四年(一四六三年)の四月まで、実に二年四か月も籠城することになる。
籠城戦として日本史上有名な、楠木正成の千早城の戦いは、三か月半、百日程度である。それにくらべるとなんと長いこと籠城したことか。
正成の戦いは、南朝のシンボルとなり、その百日の間に日本各地で南朝を支持するものが旗をあげた。それにより正成と南朝側が勝利した。
しかし、義就の場合、河内国内での領民の支持はあったが、諸国で義就を支持するものは出てこなかった。そのため、義就は、驚異的に長きに渡る籠城に耐えるものの、疲れ切った挙句、落ち延びていくことになるのである。
籠城というものは、単独で行った場合には、その効果が少ないという典型例のように思われる。
「残念なのは、出来上がった運河の数か所に、関が出来てしまったことです」片田が言った。
「あいつら、まだ、そんなことやってるのか。それでは民の評判も悪かろう」
「はい、飢饉が終わっても、攻城軍は兵糧に苦労しているようです。むりやり徴発すれば、一揆がおきるかもしれません」
「ところで、片田、そちを呼んだのは、だ」
「はい」
「金と兵糧を出さぬか」
「……」
「貸す、というのでもよいぞ」
「貸すのですか、貸すことはできますが、将来をあてにするような約束はできません」
「先ほどの、柏原、八尾、藤井寺の領主にしてやろう」
「それも、右衛門佐様が復権した場合のことです。いまのところは残念ながら朝敵となられております」
「そうじゃ」
「ひとつ、ご提案させていただきたいのですが」
「おお、申してみよ」
「河内運河ですが、殿は、石川の堰から、陵の濠の部分を所有されております」
「そうじゃ、そこまではわしが金を出した」
「そして、そこから先は、私が所有しています」
「いかにも、それは認める」
「どうでしょう、河内運河の、殿がお持ちの部分を私が買いましょう」
「それはよいが。しかし今はわしの物のようで、わしの物ではないのだが、それでいいのか」
実効支配しているのは、政長派であり、関まで設けている。
「はい」
「あれを作るのに、一万貫くらい費やしている」
「では、銭五千貫と、兵糧を銭五千貫文分で取引いたしませんか」
「ほんとうに、それでよいのか」
「はい、右衛門佐様は、かならず復権なさいますでしょう」
「将来をあてにするような約束はできない、と言っていたではないか」
「この取引自体は、今の取引ですから」
「わかった、書状を作るので、待っておれ」




