万歳 (バンザイ)
「片田商店艦隊が出航するときの掛け声ということか」三条西実隆という公卿が言った。相手は細川政元だ。
「そうだ、離岸するときに皆で歓呼してやれば気勢があがるだろう。なにしろ、遠路はるばる邪教徒を退治しにいくのだから」と政元。
「そうじゃのぅ」そういって公卿が考え込む。
この実隆という男は公卿であるが、当代の文化人でもあった。一条兼良などと、古典の研究を行い、兼良が鬼籍に入ってからも、精力的に活動した。
彼の残した日記、『実隆公記』は、室町時代後期の第一級資料とされている。
「『万歳』では、どうじゃな」
「バンセーとは、何だ」
「唐土では、皇帝の長寿を願って『万歳』と歓呼する。一万歳まで長寿して欲しいということだ」
「なるほど」
「本朝でも用いた例がある。日本書紀に三つある」
「そうなんですか」
「雄略五年二月条、顕宗二年三月、皇極元年八月の三つじゃ。最後の例では、旱が二か月続き、御門が雨ごいをしたら五日間土砂降りの雨が降り続いたという」
いずれの条も年号が定められる前のことなので、時の御門の在位何年という言い方である。
「他にも、続日本紀に用例がある。天平十七年五月だ。百姓遥かに車駕を望みて、道の左に拝謁み、共に『万歳』を称ふ、だ」
「用例は、もういい」
「そうか」
「しかし、やんごとなき御方のための言葉ではないのか」政元が訊ねる。
「唐土や朝鮮ではそうじゃが、本朝ではそれほど厳密ではない。『源氏物語』の『若菜下』では、住吉詣でに行った光源氏に対して、この言葉が使われている」
「そうか、使っていいのか」
「バンセー!」政元が突然叫ぶ。
「なんじゃ!」驚いた実隆が怯む。
「大声で言ってみたのだ。なんか、違うようだ」
「どこが違うんじゃ」
「なんか、『セー』のところで、力が抜けるような気がする」
「力が抜けるか、そうじゃな。それでは『ばんざい』ではどうだ、神楽歌に千歳というものがある。そこでは万歳を『まんざい』と読む、その『ざい』だ」
「バンザーイ!」と再び叫び、両手を挙げた。
「どうじゃ」
「ふむ、これはいいですな。バンザイにしますか」
ここまでの話は、もちろん筆者の『作り話』だ。歓呼の言葉として『万歳』が使われるようになったのが何時なのか。分かっているらしい。
日本語版Wikipediaによると、一八八九年(明治二十二年)二月十一日なのだそうだ。場所は皇居のお堀端である。
大日本帝国憲法の発布の日、観兵式に向かう明治天皇に呼びかける言葉として発せられたそうだ。
当初は文部大臣森有礼の発案した、『奉賀』が候補になった。しかし、奉賀を連呼すると、『ほうがぁ』の『あ』が後ろの『ほう』につながり、『(あ)ほうが』、『阿呆が』になってしまうので、却下された。
なにか良い唱和の言葉がないか。
そこで、ある教授が提案した『万歳』が採用されることになった。謡曲『高砂』から採ったという。
『千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ』
くだんの教授が、せっかくなら『万歳、万歳、万々歳』と三唱しよう、と言い、そうすることになった。
いざ本番。
明治天皇が青山練兵場(現在の明治神宮外苑)に行くため、馬車で皇居を出る。門のところで学生一同が『万歳』を叫ぶ。
しかし、一声目の『万歳』で、馬が驚いてしまい、天皇の馬車が止まる。
それを見た学生一同の二声目が小さくなる。
三声目は、ついに言えずじまいだった。
現代日本では、衆議院が解散されるときに万歳三唱が行われる。議員が当選した時も、数限りなく万歳が唱和される。スポーツ観戦でも勝利に歓呼する。
『万歳』は大成功を収めたのである。
しかし、その『万歳』の初めての船出は険しいものだったのだ。
片田村の大会議室。教師たちの定例会だった。
今回の議題の一つが、征夷大艦隊の壮行についてだった。室町将軍細川政元が、就学児童を集めて堺の岸壁で万歳三唱を行おうではないかと提案する。
それは国威発揚だと、賛成する教師がいる。
それに対して、戦争を賛美するとは何事か、と異議を唱える教師もいる。平行線である。
いつになっても、話がまとまらない。
『いと』はうんざりしている。だいたい子供の頃から、右か左か、勝ちか負けか、というのが嫌いだった。なので、将棋も碁もたしなまない。勝ち負けがつくものは雙六すらやらなかった。
ついに発言した。
「そんな、何時まで話し合っても決まらないことなのならば、決める必要はありません」
「では、どうするのですか」
「その壮行会ですか、行きたい人が行けばよいでしょ。行きたくない人は、行かない。この件はこれで終わりにします」
ということで、片田商店艦隊が堺から出航した。
港に集まった人数は、あまり多くなかった。
キリスト教世界やイスラム教世界は一神教の世界だ。唯一の正義として唯一神がある。
それに比べ、日本は八百萬の神が居る。それだけではない。仏教界から如来、観音菩薩、明王が参加する。
加えて、〇○天と称す梵天、毘沙門天、吉祥天等々、数えきれない神仏がいる。
なので、考え方がまちまちでも、許されるのかもしれない。