ラテン語
レオナルド・ダ・ヴィンチとジロラモ・サヴォナローラがオルダニー島の通信室にいた。奥の個室を使っている。
日本人以外でテレタイプの使用を許されているのは、まだ数人に過ぎない。そのなかに二人も含まれていた。
ヴェネツィアに滞在しているデジデリウス・エラスムスと通信するためだ。
いま、レオナルドがエラスムスに、『真理』に関する格言をいくつか送ってくれ、と要求していた。テレタイプが断続的にカタカタと鳴る。
Veritas vincit.
「ウェーリタース・ウィンキト、『真理は勝つ』か。旨い事言うな」レオナルドが言う。
「エラスムスは、ラテン語の巧者じゃの」ジロラモも言った。
また、テレタイプが動いた。
Veritas temporis filia est.
「『真実は時の娘である』。なんだ、こりゃ」レオナルドがジロラモの方を向く。
「『真実は、たとえ今は隠れていても、時間の経過によって明らかになる』、ということではないか」
「なるほどな」
この時代の国際共通語はラテン語だった。現代の英語のような位置にある。エラスムスの格言集はラテン語学習の初歩の教材としても使われた。
レオナルド達は、政治の基本に、宗教ではなく『法律』を置こうとしている。
そのためには、法律のなんたるかを普及しなければならない。普及の道具としてラテン語格言集を出版し、カトリック世界全体に配ろうとしている。
『政治の基本が宗教』と言われても、ピンとこないかもしれないが、当時のカトリック社会はそうだった。
聖書に書かれている物事が『善』であり『真』である。したがって、聖書によって政治を行う。なので、皇帝の任命も、王の任命も、ローマ教皇による戴冠により行われる。
後には、王自身が王権神授説を唱え、教皇を排除するが、それでも王は神によって任命されたとし、宗教が権威のよりどころになっている。
古い話で恐縮だが、『小さな恋のメロディ』という一九七一年の映画がある。ラテン語を学ばない中学生がラテン語教師に説教される場面で、このようなセリフが交わされる。
「なぜ、ラテン語を学ばないのだ」
「だって、ラテン語を話す友達なんていないからだ」
たしかにそうだ。
現代においては、ラテン語と言われても、古臭い昔の言葉というイメージしかないだろう。現代人がラテン語に接するのは、動植物の学名を見る時くらいである。
しかし、片田達の時代には、そうではなかった。ラテン語はカトリック世界の国際共通語だった。
当時のカトリック世界では、王国同士の国際結婚が頻繁に行われた。その目的は相続による領土拡張や同盟だった。
結婚に先立って二国間で交わされる婚姻の条件等を定める契約書からしてラテン語で起草される。
新郎新婦の初対面の挨拶も、共通語であるラテン語だ。
新郎:”Salve, illustrissima domina.”「ごきげんよう、高貴なる貴婦人」
新婦:”Et tu, illustrissime princeps.”「あなたもまた、高貴なる君主よ」
また、結婚式はローマ・カトリック教会の典礼によって執り行われる。
新郎:“Ego Maximilianus accipio te, Maria, in uxorem meam.”
「我、マクシミリアンは、汝マリーを妻として迎える」
新婦:“Ego Maria accipio te, Maximiliane, in virum meum.”
「我、マリーは、汝マクシミリアンを夫として迎える」
上は一四七七年の、ハプスブルクのマクシミリアンと、ブルゴーニュ公女マリーの結婚式の例だ。
マクシミリアンはチロル方言のドイツ語を、マリーはブルゴーニュ方言のフランス語を使い、結婚当初は相手方の言語を知らなかった。
なので、マクシミリアンが戦場からマリーに出した手紙はラテン語、もしくはラテン語とフランス語併記で書かれていたという。
夫婦仲は円満だったそうだ。
互いの愛を深めるのにも、ラテン語が重宝された時代だった。
以下の結婚も国際結婚で、ラテン語が必要だった結婚だ。いくつかは、この物語にも出て来ている。
『アラゴンのフェルナンド』と『カスティーリャのイサベル』
『ブルゴーニュのフィリップ美公』と『スペインのフアナ』
『フランスのルイ十二世』と『ブルターニュのアンヌ』
『イングランドのヘンリー八世』と『アラゴンのキャサリン』
レオナルドとジロラモが入っている通信個室のドアをノックする音がする。レオナルドが振り向いてドアをあけると、大部屋の通信員が立っていた。
「レオナルド様に呼び出しです。至急ローマに」
「来たか」
「一階の所長室でシンガが待つ。聞いてください」
通信員の言葉が不自然なのは、彼のラテン語が未熟だからだ。