簡易救命具
「御方様は、どのようなことをおやりになろうとしておるのかの」弁工場の親方が『ふう』に尋ねる。
『ふう』が手書きの図面を見せる。細長い帆布を筒状にしたもので、ところどころ、綴じ合わせている。
「中に空気を入れて、海中に落ちた者が掴まる『浮き袋』にする、ということじゃな。全長は二百メートルか」
「そうよ、二メートルごとに綴じ合わせて、気密を保つ室を作るの」
「で、その気密室ごとに弁を取り付けるのか」
「そうしようと思う」
「それならば、ゴム製救命艇用のバルブがいいだろう。同じような用途に使っている。一定の気圧に達したら、勝手に弁が外れるから、甲板上のとりまわしもいいじゃろ」
「似たようなものが、すでにあるのね」
「ああ、じゃが救命艇は複雑な形に裁断したものを張り合わせるので、作るのに手間がかかる、御方様のは平たい布を縫い合わせるだけじゃ。簡単にたくさん作れるじゃろ」そういって、径が開元通宝ほどの弁を取り出してきて、『ふう』に見せた。
ゴム製救命艇を製造している工場も教えてもらう。そこに行き、やりたいことを説明する。
「つまり、長いゴム引きの筒を作ればいいんだろ、一本二百メートルくらいの」
「そう、それで、二メートルごとに気密室を作って、それぞれにこの弁を取り付けて欲しいの」
「で、それを軸に巻き付けて舶載するんだな」
「そのとおり」
「海面に広げる時に、上甲板のキャプスタンを使うことにしよう。直径は三十センチだ。『浮き袋』の厚さはそうだな、畳んだとき厚さ一センチとするか、縁の厚みがあるからな。弁の厚みはゴムが吸収するだろうから、それほど気にしなくてもいいだろう。だとすると」そういって計算尺を出してくる。
「二百メートル巻き取ると、直径百六十センチだ。これなら船に載せることが出来るだろう。幾つ欲しいんだ」
「百本くらい作れるかしら」
「百本だと、いつまでに」
「石英丸、艦隊はいつイングランドに出航するの」
「四月半ばには日本を出発する予定だ」
「では、それまでに」
「百日しかないな、が、まぁ、出来るだろう、加熱乾燥炉があるので一日で乾く。材料となる長尺の布を提供してくれるのなら、二、三日あれば試作品を作れる」
「布は調達してきますから、そうしたらお願いします」
「わかった、だが、百本となると、船が一艘まるまる必要になるんじゃないか」
『ふう』が石英丸の方を見る。石英丸が渋々うなずいた。
砲艦『秋月』で、試験をすることになった。人の身長程もあるゴム製の円柱が甲板下から釣り上げられてくる。この細長い『浮き輪』は『簡易救命具』と名付けられた。
ゴムを塗った帆布が巻き取られたものだ。六人がかりで、上甲板キャプスタンに据え付ける。
そして、端を上甲板に引き出して広げる。圧縮空気のホースを持った水夫が、ホース先端の金具を簡易救命具の弁に取り付け、わずかに右に回す。あっというまに救命具が膨れ、カチッという音がしてホースが外れる。親方が言ったとおりだ。
水夫が次々に弁にホースを取り付ける。膨れ上がった救命具は、舷側から海面に向けて降ろされる。救命具がつながっているので、ぶら下がり、やがて海面に着水する。
『秋月』が微速前進しているので、救命具が艦尾にさがっていく
砲艦が推力を落とす。
最後の一つに空気が入り、簡易救命具の端が舷側から海面に落ちた。一番最後のところには、牽引索が結ばれた金属の輪が取り付けられていて、そこだけ帆布が二重になっている。
砲艦の航跡に沿って、白い帯が、まっすぐ延びているようだった。
「連絡艇二隻を降ろせ」甲板長が叫ぶ。
それぞれ十人の水夫が乗った連絡艇が降ろされる。艇が反転して、簡易救命具の左右で止まる。水夫達が海に飛び込み、救命具につかまる。歓声が『秋月』まで聞こえる。
救命具に馬乗りになる猛者が現れる。猛者が増えてくると、お互いに相手を突き落とそうとする。楽しそうである。
救命具として使えそうであった。
「石英丸、あれ、何かに似ていない」『ふう』が、海面にまっすぐ延びる救命具を見て、うれしそうに言った。
「似ている、何に似ているんだ」石英丸が聞く。
「風力揚水機『セキエイマル号』に似ているわ」
「セキエイマル号」というのは、片田順が室町時代に来たばかりのころに石英丸と『ふう』が作ったアルキメデス・スクリュー式の揚水機のことだった。
「あれには、ずいぶんと助けられたわ」『ふう』が昔を思い出しながら言った。
「そうだったな」
まっすぐに延びた救命具が、波の力で、しだいに形を崩してゆく。