浮き袋 (うきぶくろ)
話は少し前に戻る。一五〇五年の年末。そろそろ仕事納めだった。
『ふう』が電算室に入って来た。電子計算機室のことだ。もともとは石英丸の研究室だった。
計算機が完成したところで、移設しようと思っていた。ところがその矢先に回路の一部が故障した。
彼らは計算機を組み上げるのにあたり、テスト回路を組み込むことまで気が回らなかった。なので、故障個所を発見するのに苦労した。
一箇所故障するだけで、こんなに大変な思いをした。計算機を移設したら、何か所も故障するに違いないと、皆そう思った。それで移設は中止になり、研究室の方が引っ越すことになった。
『ならべ』が、せめてメモリ部分のチェックができるようなプログラムを作成し始めているところだ。
「今日はずいぶんと紙テープが回っているわね、生産計画計算は終わったんじゃないの」『ふう』が言った。
「それが、火薬を増産しなければならなくって、一部の計算をやり直しているんです、『ふう』姉」『ならべ』が言った。
「火薬の増産って、なんで」
「はい、魚雷の装薬を増やすそうです」
「なんで増やすの」
「それが、いままでは艦尾から舵を狙って故障させるだけの火薬しか載せていませんでした。けれど、相手が百隻以上で一度に襲い掛かってきたら、舵を狙っている余裕はだろう、ということになったそうです」
「で、装薬を増やすと、どうなるの」
「相手の船は沈みます」
「沈むって、ガレー船って、一隻に百人以上も乗っているんでしょ。その人たちはどうなるの」
「さあ、そこまでは……」
『ふう』の頭に血が昇る。あの時の事を思い出した。
仕事納めの片田商店定例会議が洲本で開催された。
堺から『ふう』がやってきて、猛烈に抗議した。
「舵を壊すだけじゃなかったの、沈めたら泳げない敵兵は死んじゃうわよ」
「そうは言ってもじゃなぁ」と男がいった。
「『ふう』婆さん、『衣笠』からの報告じゃと、フランス、教皇領までポルトガルの味方になったという」
『婆さん』とはひどいが、『ふう』は六十五歳になっている。当時ならば、老人と言ってもいいだろう。
「だから、なんなのよ」
「敵艦の数は百隻どころか、百五十、二百隻になるかもしれん。一斉に襲い掛かってこられたら、舵など狙っておられん、船体にぶつけて浸水させたほうが手っ取り早い」
「手っ取り早いから、何百人も、何千人も溺れさせるというの。ひどいじゃない」
「そうは言っても、インドでの様子を見ると、彼らは我々異教徒が死のうがどうなろうが、何とも思わぬキリスト教徒だぞ。邪教徒じゃ」別の男が言った。
日本ではキリスト教は、『邪教』ということになっているらしい。
「邪教徒だから殺していい、って言ってしまえば彼らと同じ穴の貉でしょ」
「なあ、対戦するこちらの船には日本人の若者が乗っているんじゃ。手加減して同朋が被害にあったら、どうするんじゃ。『ふう』婆さんは責任を取れるんかぃ」三人目の男も『ふう』の考えに反対した。
「でも、溺れたら死んじゃうのよ。死なない程度に戦争をしなさい」
「『ふう』さんは、戦のことをわかっとらん。殺すか、殺されるか、なんだぞ」
「私だって知ってるわ。たぶん、あなたがたよりもね。相手を殺したら、ものすごく、後悔するんだからね」
『ふう』が夫の石英丸の方を見る。その顔には、“ここは、引き下がっておけ”と書いてあった。
「敵の水兵って、泳げるの」『ふう』が石英丸に尋ねる。
「さあ、わからん。日本なら水兵は泳げる者がほとんどだが」
「じゃあ、泳げるのね」
「ただ、ガレー船はたくさんの漕ぎ手が乗っている。聞くところによると、漕ぎ手には奴隷が多いそうだ。内陸から連れてこられた奴隷だと泳げるとは限らないだろうな」
「そうなの」
正月になる。『ふう』と石英丸は洲本で年を越した。
「ねえ、石英丸。軍艦には空気圧縮装置ってあるわよね」『ふう』が尋ねる。
「もちろん、ある。最近の軍艦は蒸気タービンだから、始動時の送風に使うし、弁を操作するのにも、霧笛にも圧縮空気が必要だ」
「甲板の上にも圧縮空気の取り出し口があるの」
「ある、いろいろと便利な用途があるからな。空気で動作する工具や、噴霧塗装器、汚れの除去、潜水具への空気補給など、用途はいろいろだ」
「取り出し口の空気弁って、規格が決まっているんでしょ。どんな形をしているの」
「空気弁はいろいろある。大きいの、小さいの、精密な調整が必要なら針空気弁なんてのもあるけど」
「精密じゃなくっていいの、小さい空気弁の実物ってある」
「洲本の工場で作っているので、正月明けに一緒に行ってみよう。何を思いついたんだ」
「『浮き袋』よ。それなら戦争の邪魔にならないでしょ」




