オルダニー島の三賢人 2
「よいか」ジロラモ・サヴォナローラが、話を割って言った。
「どうぞ、なんですか」と、デジデリウス・エラスムス。
「わしは、原初の状態が、そんな野蛮なものとは思えないのじゃ」
「続けてください」レオナルド・ダ・ヴィンチが言う。
「神は除いておる、神を考慮にいれなくとも、原初の民は少ない食べ物を分け合って暮らしていたのではないか。もちろん少数の不届き者はいるじゃろうが」
「なるほど、聖職者らしいお考えですね。原初の状態がそうだとすると、どうなりますか」エラスムスがレオナルドに問う。
「そのような見方から始めると、唯一者の役割が変わるだろう。暴力や恐怖による強制の必要が少なくなる。強力な王の存在は、少なくとも国内では必要ない」
「なるほど、そうですね。民兵や夜警程度で充分かもしれません」
「そのとき、唯一者の仕事は『暴力抑制』ではなく、『協力と公平な制度づくり』ということになるだろう」
レオナルドが喝破する。
「協力と公平な制度づくり、とはなんですか」エラスムスが尋ねる。
「まず、構成員が自発的に社会に協力する仕組みを作るということだ。これには教育が必要だ。最低限の教育を構成員の子供全てに与えなければならない。こうすることにより、不届き者も減るであろう」
「公平とは」
「先に全員に最低限の教育、と言ったが、これも公平の一種だ。次いで各構成員が、自分の望む方法で社会に協力する機会が与えられることだ」
「なるほど、そういうことですか」
「社会に出てからは、どうするのじゃ。病とか事故とかで脱落する者もおるじゃろう」ジロラモが尋ねる。
「不幸にも脱落した者が社会に復帰する仕組みも必要だろう。彼らは機会さえあれば、また社会に協力できるかもしれぬ」レオナルドが言う。
「寡婦や戦傷者が救われるしくみじゃな」
「そうだ、そのようなものを、言葉にして、宗教の上に置く」レオナルドが言った。
エラスムスが言葉を挟んだ。
「例えば、万人闘争の防止や、公平という言葉からは、『すべての人間は平等である』という文章が作れるでしょう。そうでなければ、闘争を防ぐことはできません。つまり、“Omnes homines aequales natura.”、 『すべての人間は本性において平等である』です」
「言葉にすることはできるじゃろうな、それを必要なだけ並べるということか」
「そうだ。それを仮に『基本法』と呼ぶことにする」
現代ならば、『憲法』というところだろうか。
「法文をつくるにあたっては、その文が正しい文なのか、善き文なのか、見極めなければならない。そこで、評価する尺度として、まず『善』を持って来る。すなわち、キリスト教から見て正しいかどうかで判断する。法文を測る『物差し』だ」
「よかろう。それは必要な事だ」ジロラモが大きく頷く。
「万人が平等だ、ということには、キリスト教会も異存はないだろう」
「たぶん、そうじゃろうな」
「ただし、教会は間違うこともある」
「残念じゃが、認める」
「たとえば、異教徒は人間だ。しかし、異教徒を平等に扱わず、これと争っている」
「そのとおりじゃ」
「なので、『善』だけではダメだということだ」
「なにを持って来るのですか」
「ギリシア哲学には、『善』と並んで、『真』と『美』がある。これを持って来ることができるのではないか、と思っている」レオナルドが言った。
「なるほど、それは僕の得意分野です」エラスムスが言う。
「それで言えば、異教徒も人間です。なので、『真』の物差しで見ると、異教徒を差別することは、誤りです。『美』とは調和です。異教徒と争うよりは、融和する方が『美』しいでしょう。なので『善』の主張は退けられます」
「融和する方が美しい、はそうだろうが、説得力には欠ける気がするな」と、レオナルド。
「そうですか、私は『美』をそういうものだと思っています。単なる若い娘の裸体画が美しいというようなものではありません」
「どういうことだ」
「私の考える『美』は生存に関係します。『美』とは生存を保証するものではないかと思っているのです」
「よくわからんのぅ」ジロラモが言う。
「逞しい男性彫像は、明日の糧をもたらすことが期待できるから美しい、若い女性彫像は、生命の器として、美しいのです」
「わかるような、わからんような意見だな」レオナルドも言った。
「では、極端な例を出してみましょうか」エラスムスが言う。二人が頷いた。
「夕陽が西の空に沈んでいきます。景色はおだやかです。これは美しいと感じるでしょう」
「そうだろうな」
「これは、明日も安らかな日になるであろう、と期待できるから美しいのです。明日の生存を期待させてくれる景色です。反対に嵐であれば、それを美しいと感じる人もいるかもしれませんが、一般的には不安を感じるものです」
「それで」
「ドブネズミがいるとします。彼にとっては美しい夕陽が見える景色は、周りに自分を守ってくれる障壁がない、危険な状態です」
「突飛なものを出してきたな、次はどうなる」
「彼にとっては、薄暗く、饐えた空気に満ちた下水道の中にいた方が生存率は高くなるでしょう。夕方に野原にいたら夜目の利く猫に襲われるかもしれません。それならば、下水道はネズミにとっては美しい場所になる、ということです」
「下水道を美しいと感じる、というのか」
「ドブネズミにとっては、そうでしょう」
「それは、人間が感じる『美』のイデアは存在しない、と言っておるのではないか」レオナルドが指摘する。
「はい、イデア論については懐疑的です。争うよりも、融和する方が、生存可能性が高まるというのであれば、それは『美』です」
「最初の『万人の万人に対する闘争』に戻るということか。なるほど」レオナルドが言った。
「なんとか、法文は作れそうじゃな。しかし、もう一つ問題があるぞぃ」ジロラモが言った。
「なんでしょう」
「この法文を普及させることじゃ。宗教でいうと、伝道じゃ。皆が、成程この法に従って暮らした方が、無法状態より、よほどマシだ、そう思わせなければならんじゃろ」
「それが、問題だ」レオナルドが頷く。
「そうですね、どう伝えるかですね」エラスムスも同意する。
三人と、通訳のシンガが黙り込む。どうラテン世界全体に伝えるのか。
話に水を差すかたちになったので、ジロラモ・サヴォナローラが気まずい顔をした。
「あれは、どうでしょう」突然シンガが言った。
「なんだ」三人が尋ねる。
「エラスムスさんの『格言集』です。私も持っています。ラテン語の勉強になりました」そして、シンガが続ける。
「『格言集』として、法文を出したらどうでしょう。基本法の格言、という章を立てて、そこに諺と、その解釈としての法文を書いたらどうでしょう」
エラスムスの『格言集』は一五〇〇年にパリで出版されている。
ギリシア・ローマの古典から格言を選び出し、それに注釈を加え、ラテン語で出版された。
エラスムスが考えて、言った。
「それは、いいかもしれない。先ほどの“Omnes homines aequales natura.”も、格言集のなかの一文です」
「どれくらい、売れたのじゃ」
「さて、少なくとも六百冊は売れています。それ以降は数えるのを止めました」
たった六百冊か、と思うかもしれないが、当時としてはすごい事だった。さらに一五〇六年の増補版は二千冊以上売れ、以後再販が続き、十六世紀末までに百以上の版が組まれている。百年の間には数万冊、数十万冊の『格言集』が出版されたことになる。
当時としては、すばらしい影響力だった。
かくて、この三者会談の後、イタリアに渡ったエラスムスは、ヴエネツィアのアルドゥス・マヌティウスの印刷所から、彼の格言集の増補版を出版することになる。
・Omnes homines natura aequales sunt.
(すべての人は本性において平等である)
・Nulli facias quod tibi fieri non vis.
(自分がされたくないことを他人にしてはならない)
・Ius est ars boni et aequi.
(法とは、善と公平の技である)
・Fiat iustitia, ruat caelum.
(たとえ天が落ちようとも、正義を行え)
・Pax optima rerum.
(平和こそ、最上の事柄である)
・Audi alteram partem.
(相手の言い分も聞け)
・Vox populi, vox Dei.
(民の声は神の声)
…………
「若い女性彫像は、命の器として、美しいのです」というのは、あくまでもエラスムスさんの意見です。筆者の発言ではありません。念のため。
格言に、
・Audi alteram partem.
(相手の言い分も聞け)
を追加しました。ただ聞くだけではなく、なぜそう言っているのか理解しろ、という意味です。
いまの世の中に一番欠けていることかもしれません。
 




