オルダニー島の三賢人 1
オルダニー島の南側の湾に輸送船が入る。湾の左右が岩礁になっていた。東側の岩礁のなかに、船を接岸させるのにちょうど良い水道がある。そこに桟橋が建設されていた。
水道と外海の間には古い要塞が建っている。
レオナルドが上陸すると、一人の若者が待っていた。
「レオナルド・ダ・ヴィンチさんかな」若者がトスカナ方言で尋ねる。乗客に西洋人は一人しかいないので、あきらかだった。
「そうじゃ、言葉が上手だな」
「僕はシンガ、一時フィレンツェに暮らしていたんだ」
「ほう、そうか、それは助かる」
「今日は船旅で疲れているでしょう。宿所に案内します。明日の朝、また僕が迎えに来ますので、お二人にお会いください」
「そのあたりの事は、日本にいる時に聞いている。デジデリウス・エラスムスとジロラモ・サヴォナローラのことだな」
「そうです」
翌朝、シンガが迎えに来る。二人は島の東端に近い小屋を目指す。そこにも要塞の遺跡が建っていた。要塞だらけの島である。その隣に目指す小屋がある。
「ジロラモさん、お早うございます。レオナルドさんを連れてきました」シンガがドアを開けてそう言った。中から二人の男の声がする。
レオナルドが室内に入り、二人を見る。一人は初老の僧、もうひとりは壮年の学者だった。
ジロラモとレオナルドは同じ五十四歳、エラスムスは四十歳である。
ジロラモとエラスムスはラテン語で自由に会話できるが、レオナルドのラテン語は不十分だった。なので、シンガが通訳兼書記を務める。ジロラモもトスカーナ方言を操れたので、それで十分だった。
三人が挨拶を交わし、レオナルドが本題に入る。
「現在大陸において、いくつもの宗教暴動が起きている。これは聖書をどう理解するか、というところに原因がある」
「そうじゃ、ローマ教会の理解の仕方が正しいはずだった、何百年にもわたって研究されてきた結果なのだから。アンセルムス、トマス・アクィナス、オッカムとな」ジロラモが言う。
「ところが、そうではなくなりました」エラスムスが言う。ジロラモは反論しなかった。
「そうだ、そこでカタダ殿が言うには、聖書とキリスト教に解答を求めても得られない、果てしない教義論争になるだけだろう」レオナルドが言う。
「それは、わしも良く考えてみた。どう考えてもそのとおりだ。論争が止むことはないであろう」これはジロラモ。
「それを認めてくださるのか。ありがたい」レオナルドが応えた。
「それは、私も認めます。事がこうなってしまった以上、聖書に答えを求めてもしかたありません。いくらでも相矛盾することが書いてあるのですから」エラスムスも言った。
「人は信仰によって救われるのか、それとも『行い』によって救われるのか、じゃな」ジロラモが言う。
『ローマの信徒への手紙』には、「人は律法の行いとは別に、信仰によって義とされる」とある。義とされる、というのは救われるということだ。
一方『ヤコブの手紙』には「人が義とされるのは行いによるのであって、信仰だけによるのではない」と書かれていて、信仰だけでは不十分だとしている。
他にもある。人が救われるのは、人の意思によるのか、それとも神に決められているのか。神の姿は見えるのか、見えないのか、律法は守るべきか、破棄すべきものなのか。神に救われる人数は多いのか、少ないのか。数え上げれば際限がない。
神が態度を変えることがあるのか、変えないのか、なんてのもある。
『出エジプト記』にはこう書いてある。
「主は、その民に下そうとした禍を思い直された」
こんなものを基準にしていたら、まとまりようがない。
「宗教よりもっと上位の概念が必要になるだろう、そう彼はいった」
「宗教より上位ですか。そんなものがあるのでしょうか」
「ある、のではなく、作らねば収まらない、そう言っている」
「そういうことですか」
「そこで、ここに来るまでに、わしが頭を絞って考えてみた。間違っていたら指摘してほしい」
「話してみてください」
「もっとも単純なことから始めなければならない」レオナルドが宣言した。彼が『かぞえ』師匠に教えてもらった数学の初歩を思い出す。
「数学は、必要最小限の、明白で、あきらかに否定できない事実から始めるのよ、そしてそこから積み上げるの」そう師匠は言っていた。
「そこで、王も神も宗教も無かった、はるか昔のことを考えてみよう」
「神は人間が存在する前から、すでにおられた」と、ジロラモ。
「もうしわけありませんが、思考の実験ですから、それは少しの間、脇に置いておいてください」レオナルドが頭を下げる。
「『オッカムの剃刀』ですね。それは、面白いかもしれない、続けてください」これはエラスムス。
「ここに一人の健康な男がいる。彼は生き続けたい。そのためには食物が必要だ。彼は周囲の木の実や魚を採って食べるであろう」
「それで」
「人間は将来を予見する能力があるから、食料はいくら蓄えても十分だということはない。死期を知ることは出来ないからだ」
「そうすると、無限に食料を手に入れようとするでしょうね」
「そうだ、ここにもう一人の男を連れてこよう。初めの男の隣人だ」
「そうすると、やがて二人が戦うことになるでしょうね、両方とも無限の要求を持っているのですから。あるいは袂を分かって、どちらかが、どこか他所の土地に行くかもしれません」
「そうだ。人間は自己を保存するために、暴力を使う権利がある。これを仮に『自然権』と呼ぶことにしよう」
「人がだんだん増えていくとする」レオナルドが続けた。
「そうすると、他所に行くことはできなくなりますね、いずれは」
「どうなると、思う」
「『万人の万人に対する闘争』になりますね。しかし、それは不毛です。やがては食料を集めるより、それを守ることに忙殺」されることになるでしょう」
「そうならないために、神の教えがある」ジロラモが言った。
「あの」
「わかっとる、神は脇に置いておく、続けてくれ」
「自己保存を妨げるのは、他人の自然権だ。なので、全員が自然権を誰か唯一の者に預ければいいということになる。預けられた唯一者は、全員の代理として自然権の行使を行う」
「王のことを言っているのか」
「王とは限りませんよね。唯一者といっても、個人でなくともいいでしょう。なんらかの組織かもしれない。古代ギリシアの例もあります」エラスムスが言った。
「この唯一者のみが自然権を行使するのだが、そのためには規範がなければならない。この規範を、これも仮に『正義』と呼ぶことにしよう」
「アリストテレスにおける『正義』のことを言っていますか」
ユスティティアとは、ラテン語で書くと iustitia のことだ。
「同じになるかどうかは、わからない。これから決めるのだから」レオナルドが言う。
エラスムスが、『アリストテレスにおける正義』と言っている正義とは、だいたい以下の意味だ。
「正義とは、共同生活における他者に対する完全な徳である」
徳といっても、よくわからない。公平のことを言っている。アリストテレスは分配的正義と矯正的正義があるという。
財を共同体構成者で分配するときに、各人の功績や資格に応じて分配する。これを分配的正義という。
共同体構成者の間で、損益の不均衡が発生した時、それを調整して元に戻す。これを矯正的正義という。
たとえば、
みんなでピザを分けるときに、功績や貢献度に応じて分けるのが分配的正義。
誰かが他人のピザを1枚余計に取ったら、取ったピザを返して平等に戻せと命じるのが矯正的正義。
ということになる。
万人がそれぞれ食物を奪い合えば、『万人に対する闘争』となる。なので、唯一者が、公正に(正義をもって)分配すればよいのではないか、という考え方である。
そして、構成者は、唯一者の正義の行使を受け入れる。これならば、皆が安心して暮らしていける。
レオナルドは、そう言っている。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』である。




