『十二か条』
「あなたの気休めになるかもしれない、そう思ってこんなものを持ってきました」デジデリウス・エラスムスが背負い袋から折りたたんだパンフレットを取り出した。
「これはなんじゃ」
「ドイツの農民たちが『十二か条』と呼んでいるものです。彼らの要求を箇条書きにしたものです」そういって、ジロラモに渡した。
「わしゃあ、ドイツ語は読めん」
「そうですか、では、私も得意ではありませんが、要約してみましょう」そう言ってエラスムスがパンフレットの内容をまとめてジロラモに説明する。
一、共同体(農民や市民)による聖職者の選出と罷免
二、十分の一税の共同体による運用
三、農奴制の廃止(当時は領主から農民に対して際限のない労働要求があった)
四、狩猟や釣魚の自由(これらは領主の権利であった)
五、森林の共同地としての利用(同上、燃料の薪などは領主から購入しなければならない)
六、貴族が我々に要求する労働の制限
七、貴族に提供する労働は、我々の合意の範囲内とする。
八、地代は収穫量に応じたものとする。
九、罰金を科すことを目的とした法律の乱立の禁止。古来の成文法への回帰。
十、貴族による牧草地、共有地の私物化の禁止。両者の農民への返還。
十一、相続税の廃止
十二、上記条項が神の言葉に反する時は、これを撤回する。
「ということが、書かれています」
「所々に神への言及はあるが、宗教に関わるところは、一番と二番、それと十二番だけじゃな」ジロラモがあきれる。
「そうです。もっと言えば、宗教に関しては、一番の、聖職者は共同体自らが決める、そして、二番の十分の一税は地域の困った人のために使う。の二つだけです。信仰の内容に関しては、書かれていません」
「どういうことじゃ。わしゃあ、てっきり神学論争が行われていると思っていたのだが。ほとんどが世俗的な条項ではないか」
「そうですね、どうです、気が楽になりましたか」そういってエラスムスが微笑んだ。
「気が楽になるどころか、肩透かしをされた気分じゃ」
「でしょうね」
「彼らは神のために戦っているのではないのか」
「まあ、彼らの新しい信仰のために戦っているのは間違いないでしょうが、それよりも現世的な待遇の改善要求の方が強いみたいですね」
「なぜ、そんなことになっているのだ」
「教会という権威が新教により崩れてしまいました。彼らは、『世の中は変革することができる』ということを知ったのでしょう」
「ローマ教会の権威が崩れた、だと」
「はい、そのようです」
「腐っているのは教皇や枢機卿であって、教会そのものは……」
「僕もそう思います、しかし、彼らはそうではないようですね」
「しかし、それではこの世の仕組みが崩れてしまうことになるのではないか」
「さて、どうでしょう。進歩かもしれませんよ」
以前、ルターやサヴォナローラは中世の末期に生きており、エラスムスとカルヴァンは近世の曙に生きている、というようなことを書いた覚えがある。
まさに、そのとおりの反応だった。
「ジロラモさんは、レオナルド・ダ・ヴィンチをご存じですか。フィレンツェ出身の男だそうですが」
「名前だけは聞いたことがある。フィレンツェ近郊出身の技師で絵画の腕もあるそうじゃな。彼はミラノで仕事をしていたので、会ったことはない」
「そのレオナルドが、この島に来るそうですよ、私と尊師と、そしてレオナルドとで相談してほしい、そうカタダ殿が言っておられました」
「何についてだ」
「これからどうしていくか、についてです。どうも彼には考えていることがあるようですが、キリスト教など、ヨーロッパの文化に疎いそうです。それで具体的な方法について検討してみてほしいとのことです」
「なにをどうしようというのか」
「さて、そのあたりについては、レオナルドに話してあるそうですよ、彼に聞いてみましょう」
そのレオナルド・ダ・ヴィンチは、オルダニー島のすぐ近くまで来ていた。片田順との会話以来、彼の頭の中では、色々なことが高速で回っていた。
“『宗教よりも上位の概念』か、なるほど、そういうものが見つかれば、今の混乱が収まるかもしれない。とすると、宗教はどうなる……。
宗教は、『善』だな。善の物差しだ。『善』が出てくるのならば、『真』と『美』も登場するのか、これらも上位概念の物差しになるのであろうか……。
上位概念はどのようなものになるのか。社会が正しく機能し、存続するために欠かせないものにちがいない……。
社会が機能し、存続するためには、何が必要だ。社会を構成する人間が充分に才能を発揮しなければならない。そのために必要なのは何か……。“
そう考えるレオナルドの目の前で、オルダニー島がだんだん大きくなってきた。




