ルイ十二世
『第一次イタリア戦争』については、以前に書いた。フランスのシャルル八世がイタリア半島南部のナポリ王国の王位継承を主張してイタリアに侵攻した。一四九四年のことだった。
フランス軍はフィレンツェに入城し、メディチ家が追放される。次いでローマに進み、教皇アレクサンデル六世に仁義を切って通過し、ナポリに迫る。
二万五千のフランス軍にナポリはなすすべがなかった。シャルルはあっさりとナポリを手に入れる。
ここまではよかった。
しかし、シチリアを所有し、ナポリを狙っていたスペイン(カスティーリャ・アラゴン)のフェルディナンドがシチリアからイタリア南部に上陸する。
教皇アレクサンデルは背後で掌を返し、ヴェネツィア、ミラノと同盟を組んでフランスを半島に閉じ込める。
シャルルはイタリア中を逃げ回って、フランスに去って行った。
この戦争は、フランスにとって政治的には無意味だったのだろう。イタリアに寸土も得られなかった。しかしシャルルは莫大な戦利品を、彼の美しいアンボワーズ城に持ち帰って来た。
イタリアで集めた美術工芸品は数十トンにもなったという。さらにナポリのヌオーヴォ城にあったギリシア語、ヘブライ語、ラテン語、イタリア語の蔵書も持ち帰った。その数一一四〇冊といわれている。
シャルルは雪辱戦を考えていたらしいが、三年後にアンボワーズ城で戸口の梁に頭を打ちつけて頓死してしまう。
一部の西洋史叙述ではシャルル八世の死をもって、フランスの中世が終わり、近世がはじまるとする説がある。
西洋史では近世の始まりを東ローマの滅亡、ルネサンス、宗教改革、大航海時代よりと定めているので、おそらくシャルルの持ち帰った文物でフランスにルネサンスが始まったとしているのだろう。
突然に亡くなったシャルル八世の後を継いだのが、ルイ十二世である。王位継承の揉め事はなかった。『スペイン継承戦争』とか『オーストリア継承戦争』という戦争はあるが、『フランス継承戦争』という名前の戦争はない。
フランスには『サリカ法典』という王位継承の決まりごとがあるからだ。
同様にフランスには女王もいない。これも『サリカ法典』が女王を認めていないからだ。
ルイ十二世が王になる。王になるが、筆者としては、少しこれに困っている。
なぜなら、おもしろくない男だからだ。ある日本人の西洋史学者は「賢明といえば、賢明。けれど、どこか出来すぎの優等生タイプ」と表現している。
「ブリタニカ百科事典11版では「病弱で知力は平凡であり、王妃アンヌと寵臣のジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿に影響された」と書いてあるそうだ。散々だ。
十九世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレはこの時代を「フランスは病んでいる」と評した。
ジュール・ミシュレを知らない人も多いかもしれない。『ルネサンス』という言葉を造語した学者だという。虫プロダクションが一九七三年に制作した劇場用アニメーション、『哀しみのベラドンナ』の原作、『魔女』の作者でもある。
私は彼の著作、『フランス史』のほんの一部しか読んでいないが、その限りにおいては、文章の巧みな人である。
例えるならば開高健のような文章を書く。いい大人をその気にさせてしまうような作風だ。
話を戻す。
もしこれが、次の王フランソワ一世だったら、いくらでもドラマチックな話になりそうである。よほどフランソワに登場してもらおうか、と思った。
しかし、そうもいかない。優等生ルイ君に活躍してもらおう。
ルイが即位してはじめにやったことは、離婚である。王になったのが三十六歳だったので既婚者だった。結婚して二十五年が過ぎていたが、子供がいなかったことも災いした。
再婚相手は、シャルル八世の妻、アンヌ・ド・ブルターニュである。
無理に離婚してまで先王の妻と結婚しなくとも、と思うかもしれないが、アンヌは名前でわかるとおり、ブルターニュ地方を父から相続した女性公爵だったのだ。
フランスはブルターニュ地方を国王直属にしたい。先王のシャルルはそのためにアンヌと結婚している。ルイもそれを継続しようということだ。
フランスは長い年月をかけて封建制度を脱し中央集権化を目指してきた。以下にそのリストを示す。
ノルマンディー 1204年 イングランドのジョン失地王から奪取
トゥールーズ 1271年 相続者不在により王領化
シャンパーニュ 1284年 ナバラ王女ジャンヌがフランス王と結婚し王領化
アキテーヌ 1453年 百年戦争でイングランドより奪取
ブルゴーニュ 1477年 突進公シャルル戦死後に王領化
プロヴァンス 1481年 アンジュー家断絶によりルイ11世が相続
そして、シャルル八世がアンヌと一四九一年に結婚し、ブルターニュがフランスに含まれる。
しかし二人の間に男の子が産まれないまま、シャルルが死んだ。ブルターニュは再びアンヌ一人のものになる。彼女がイングランドの王族などと再婚したら、ブルターニュはイングランドに帰属するかもしれない。それは防がなければならぬ。
そこでルイが再度フランス王としてアンヌと結婚し、ブルターニュを引き戻した、というわけだ。ルイが優等生だ、といわれる所以である。
ここまでくると、フランス国内に残る封建諸侯領はあとたった一つ。フランス中心部のブルボン公爵領のみである。
そのブルボン公爵領は、次の王のフランソワ一世により『お取り潰し没収』の憂き目にあい、フランスは中央集権国家となる。
領地は没収されてしまうが、ブルボン家は傍系王家として存続する。
ヴァロア朝が絶えてしまったあとに、アンリ四世が一五八九年に『サリカ法典』に従って即位し、フランスにブルボン朝が開かれることになるのは、ご承知のとおりだ。
『サリカ法典』、恐るべし。
なお、ブルボンとは、もともと地名である。ブルボン公爵領のなかに、温泉の出る地があった。ガリア宗教の温泉と癒しの神様、ボルヴォにちなんで、その土地をボルヴォと名付け、それがブルボンに変化したといわれている。




