フランス
この物語に、このあとフランスが出てくることになる。なので、フランスについて書かなければならない。つまらないかもしれないが、なるべく一回で終わりにするので我慢して欲しい。
フランスについては、これまでのところ、イタリア戦争を始めたというところで登場している。このイタリア戦争は一四九四年に始まり、一五五九年まで断続的に続いた。フランスが主導してイタリアに侵攻する形で始まり、その後は神聖ローマ帝国・スペインとの対抗戦争へと発展した。
六十五年間の間のフランスの王は以下のとおりである。
シャルル八世(1494―1498年)
ルイ十二世(1498―1515)
フランソワ一世(1515-1547)
アンリ二世(1547-1559)
最後のアンリがカトー・カンブレジ条約をハプスブルクと締結し、イタリアの権利一切を放棄して戦争が終結する。
すなわち、『イタリア戦争』とは、戦場こそイタリアだったが、フランスのヴァロア朝とハプスブルク家(神聖ローマ帝国、スペイン)の戦いだった。
フランスはなぜ、このような戦争をしたのだろうか。
一番の理由は、当時のイタリアが東方との貿易で豊かだったということだろう。そしてその富を使ってルネサンスという文化を開花させたことだ。その富と文化を手に入れたい。
二番目の理由は、これは戦争の途中で発生した理由だが、スペインがハプスブルク家の王を戴いたことだ。これによりフランスはハプスブルクに包囲されたことになる。イタリアに活路を見出さなければならない。
三番目に、そもそもローマ皇帝は、フランクが相続したものである、という考え方がある。
それぞれの理由について書いてみよう。
まず、イタリアの富であるが、これはすでに何度も言及しているので、いいだろう。文化について書く。
当時のフランスの文化水準はどのようなものだったろう。前回ミケランジェロのピエタ像をとりあげたので、同じピエタを紹介しよう。
Wikipediaで『ヴィルヌーヴ=レザヴィニョンのピエタ』という記事を探し、その画像を拡大してみてほしい。この絵画は省略して『アヴィニョンのピエタ』とも呼ばれている。
この絵画は発見当初、作者や来歴がよくわかっていなかった。アヴィニョン近くの村の礼拝堂のなかで偶然、発見されたのだった。以前は十四世紀半ばの作品であろうと言われていたが、最近の研究では十五世紀のアンゲラン・カルトン(一四一〇~六六)の作品であろうという説が有力になっている。
四人の人物が十字架から降ろされたキリストの遺骸を囲んでいる。
右の赤衣の女性は香油壺を持っているので、マグダラのマリアだ。中央の紺色の衣装に身を包んでいるのが聖母マリアである。その左の男性は福音書を書いたヨハネだ。ピエタのわき役はヨハネと決まっている。
そして一番左の白衣を着た男性は、寄進者だといわれている。
すなわちお金を出してこの絵画を制作させ、教会に寄進した人間だ。
寄進者を作品に描きこむことは、当時よくおこなわれた。つまり作成された絵画なり彫刻は寄進者のものであり、作者のものではない、ということだ。
ミケランジェロが自分の作品とはいえ、それに自分の名前を刻み込むのは、とんでもないことだった。発注者のフランス人枢機卿が既に死んでいたので大事にならなかったのだろう。
『アヴィニョンのピエタ』は宗教画として描かれているので、いくつもの制約がある。自由奔放なルネサンスのミケランジェロと単純には比較できない。
たとえば聖母マリアだが、息子のイエスが三十代で受難しているので、五十前後になるはずだ。なので、高齢女性として描かれている。ミケランジェロのマリアは、どうみても若い娘だ。これは像の完成当時に問題になったそうだ。
ミケランジェロは、マリアにも神性があるので永遠に若さを保つのだ、と苦しい言い訳をしている。
香油壺を持っているのがマグダラのマリア、わき役がヨハネというのも、お約束である。
さらに、あまり魅力的に描いてもいけないのだ。欲情するような絵画は許されない。
ルネサンス以前の中世の画家は、さぞかしつまらなかったであろう。
しかし、この絵の作者は、寄進者の部分は自由に描いているようだ。なので、彼の白衣の襞とミケランジェロのピエタ像の衣服の襞を比べるのが公平な比較であろう。
両者の衣服の襞の差が、当時のフランスとイタリアの文化の差である。フランスがイタリアにあこがれるのは、無理もないのだ。
二番のハプスブルクによる包囲については、そのとおりである。現代ならば地政学的にみて、うんぬん、ということになるだろう。
三番目については、歴史をすこし振り返らなければならない。
西暦四七六年に西ローマ帝国が滅ぶ(ゴロ合わせ『西ローマ、死なむ』)。それからしばらくしてフランク族が現在のフランス、ドイツ、イタリア北部に囲まれた部分を統一する。この功績でフランクの王様、カールがローマ教皇からローマ皇帝の冠を授けられる。『カールの戴冠』という。西暦八〇〇年のことだ。(学生時代の筆者はウソ八百のローマ継承、とゴロ合わせで覚えた)。
しかし、フランク王国は長子相続の慣習が無かったため、西フランク、東フランク、中部フランク(後のイタリア)の三つに分裂する。
皇帝位は当初西フランクが持っていたが、イタリアを経由して東フランク、つまり神聖ローマ帝国に渡ることになる。
しかし、西フランクを継承したフランスは、『そもそも』、ローマ帝国はフランスのものであり、ローマ帝国である以上、ローマをその版図にいれなければならない、という考え方が残る。
蛇足だが、国際政治などを語る時、『そもそも』という言葉が出てきたら、危険だと思わなければいけない。
「そもそも、あそこの土地は我々のものだ」「そもそも、あの島は~」などである。これが始まると、話がまとまることはない。下手をすると紛争や戦争になってしまう。
国際政治において、『力による現状変更の試みを許さない』といった場合の『現状変更』とは、そもそも論を止めておけ、ということでもある。
と、いうことで、この時期のフランスはイタリアに憑りつかれている。フランスの王宮は多数の人文主義者を抱え、イタリアの新しい文化を吸収することに熱心だった。
最後に『アヴィニョンのピエタ』をもう一度見てみよう。左の地平線、寄進者の頭の右上部分に、どこかで見たような建物群がある。
これは、その様式からイスタンブールのアヤソフィア寺院を描いたものだと解釈する者もいる。すなわち東ローマ帝国時代のキリスト教正教会の大聖堂である。
帝国の首都、コンスタンティノープルにあった。この都は一四五三年にオスマン帝国により攻略され、東ローマ帝国が滅んでいる(ゴロ合わせ、一夜ゴミの東ローマ)
このことから、『アヴィニョンのピエタ』は東ローマ帝国の滅亡を嘆いた作品でもある、と語られる。そうだとすれば、一四五三年以降の作品となる。
仮に翌年の一四五四年に描かれたとすると、ミケランジェロのピエタは一五〇〇年に完成しているので、両者の時代差は、わずか四十六年である。




