ローマ法王庁
「授業からは脱線しますが、簡単に話しましょう」
そういって、黒板の下の鉤から紐を外す。そうすると周期表が自動で巻き上がっていった。
そして、黒板に原子の絵を描く。
「物質は原子核とその周りを回る電子から出来ていることは、少し前に話しましたね」
「あれ、なんだかよくわかんなかったね」
「そうだな」
「電子は原子核の周りを回っていますが、勝手に回っているのではありません」
そういって、中心に原子核を書き、その外側に少し大きな円を描いて、『K殻』と脇に記す。そして円周上に二つの丸をさらに加えた。
「この丸が電子です。二つありますね」
「ふたつだね」
「さらに、この外側にも円があります」そういって、もう少し大きな円を描き、八つの丸を加える。これは『L殻』
「もうふたつ円を描きましょう」三番目と四番目の円を描き、その円周には十八と三十二という数字を書いた。それぞれ『M殻』、『N殻』と添える。そして、言った。
「さて、なにか思いつくことはありますか」
レオナルドも子供達も黙った。やがてレオナルドが言った。
「もしかして、その二、八、十八というのは、周期表の一行目、二行目、四行目の項目の数ではないのか」
「そのとおりです。良く気付きましたね」『かぞえ』がそう言って微笑んだ。
「レオ達磨のおっちゃん、すごいな」子供達が囃す。
「しかし、周期表では二行目も、三行目も八つしかないが」
「そうですね、電子は内側の殻から順に入るのですが、そうでない場合もあるのです。たとえば、今レオナルドが言ったように三番目のM殻には十八個の入れ物がありますが、八つまで電子が入ってしまうと、次の九番目と十番目の電子はN殻に入ってしまいます。十一番目になると、やっとM殻の九番目に入るのです」
「では、このことから何が言えると思いますか」
はい、そういって、十歳くらいの女の子が手を挙げた。
「どうぞ」『かぞえ』が指名する。
「物質の性質は、一番外側を回っている電子の数でだいたい決まるんじゃないですか」
「そのとおりです。大変よくできました」
レオナルドが口をあんぐりと開けた。
「ただし、だいたい、ですよ。例えば鉄と亜鉛はどっちも一番外側の電子が二個ですが、すこし性質は異なります。なぜ、外側の電子で物質の性質が決まるのか、よく考えてみてください。明日はこの理由から話します」
『かぞえ』のその言葉で、授業が終わった。七歳くらいの女の子がレオナルドに寄って来て彼の胡坐に乗った三歳の子を引き取る。弟なのだろう。彼女は子守役だ。
『かぞえ』が子供達の出て行く方を見て、片田を見つける。
「あら、『じょん』。福良に来ていたの」
「うむ、さっき鍛冶丸の飛行艇で飛んできた」
「こちらは、レオナルド・ダ・ヴィンチさん。初めてかしら」
「はじめまして。私は片田順といいます。先ほどは子供達が失礼なことを言って申し訳ありませんでした」
「はじめまして、神のご加護を」そういって、レオナルドが軽く頭を下げる。十六世紀のフィレンツェには日常の挨拶で握手をする習慣が無かった。
握手をするのは、同盟の締結がなされた時とか、商談が成立した時くらいである。
「なに、子供のことだ、気にしておらん」
「日本語がお上手ですね」
「『かぞえ』師匠に特訓されたからな」そう言って笑う。
「『特訓』ですか、そちらも、失礼はなかったのでしょうか」
「心配しなくともよい。わしの方から教えを請いにきたんじゃ、言葉を覚えるのは当然の礼儀だ。しかし、みなが『じょん』、『じょん』というので、イギリス人なのかと思っていたが、日本人なのだな」
「はい、日本人です。実はレオナルドさんに頼み事があってやってまいりました」
「これほどに、空を飛ぶ機械をつくるほどに科学や技術を発達させたカタダ殿が、わしなどに頼み事があるのか。おぬしのことは、『かぞえ』師匠から聞いておるぞ」
「レオナルドさんでなければ、出来ないことです」そう言って片田が黙る。
『かぞえ』が察したように言った。
「では、私は昼ごはんの準備があるので、家に戻るわ。レオナルドさん、今日のお昼はイワシのマリナーティですよ」
「おぉっ、それは楽しみじゃ」
マリナーティとは、現代のマリネのようなもので、生魚の切り身を塩、酢、オリーブオイル、ハーブで漬け込んだものだ。ラテン語の marinus 『海の』という言葉が由来だという。
『かぞえ』が約束通り、オリーブオイルを買ってきたようだ。
「カタダ殿、立っていないで座りなされ。わしにどんな頼み事じゃ」そういって、片田を促した。たいした日本語を話すものだな、そう片田が思った。
片田は、レオナルドの日本での暮らしぶりなどをいくつか話題にした。挨拶のようなものだ。その後に、切り出した。
「ところで、レオナルドさんは、現在のローマ法王庁のことをどう思われますか」




