橘丸(たちばなまる)
「石英丸、自警団って、なにをやるんだ」皆が解散した後に残った犬丸が石英丸に尋ねた。
「うん、自警団はいま、六十人程いる。元足軽だったり、百姓だったりいろいろだ。初めは村民持ち回りでやっていたのだが、今は仕事として専任させている。昼間や夜間、村内におかしなことが無いか見回るのが主な仕事だ。で、万一の時に備えて戦闘の訓練をしている。訓練自体は武士出身の者が数人いるので、その人達が稽古をつけてくれる」
「『じょん』が、保安に関しては、俺が担当するように、って言っていたから、管理は自分ですることにするよ。犬丸の役割は、訓練の時間割、訓練の立ち合いとかそういったものだ」
犬丸は、片田に言われた通り、石英丸の言葉を紙に書き残した。
「だとすると、ずいぶん時間が余るな、他の時間は好きなことをやっていていいんだな」
「そうだ」
安宅丸の船学校は造船技術者と船員の両方を育成していた。運河建設が終わり、建設に従事していたものからも入学者が出ていたので、八十名程になっていた。
彼ら造船、船員のいずれを選ぶにしても、座学、水泳、峯風級の小舟での操船は共通して学ぶことになっていた。
船員を選んだ者たちは、そのあと村上義顕の船に見習い船員として預かってもらっていた。片田は、自分たちだけで航海できそうか、と安宅丸に尋ねた。
「普通の航海であれば、学生だけで出来るでしょう。でも、嵐のような悪天候とか、港内のしきたりとか、経験者が必要な場合があります。村上氏のところから熟練者を十名程雇ってもらえないでしょうか」と、安宅丸が言った。
この年が豊作であるのを確かめた片田は、義顕から中古の和船を一隻購入した。
「こんなのでいいのか。この船はまだしっかりはしているが、塩魚の運搬に使っていたから、魚しか運べないぞ」義顕が言った。
新造の船は絹のような高価なものを運ぶ。一度、魚を積んでしまうと、船に魚のにおいがつくので、絹のようなものは運べなくなる。
「安宅丸達の訓練用だから、大丈夫だ。それに運ぶものは硫安だからにおいがついてもかまわない」
片田が購入した和船は橘丸という名前になった。安宅丸達は、難波の海で、行きつ、戻りつと訓練航海をした。悪天候の時の航海も試してみた。
数か月たったころ、村上氏から雇った船員の長が、もう航海の操作は大丈夫だろうといってきた。
片田は橘丸で、博多までの航海してみることにした。船倉には硫安を入れた樽を詰めた。もちろん片田も行く。番頭の大黒屋惣兵衛さんは、あきらめたようだった。自分がしっかりするしかない、惣兵衛さんは決意した。
航海は順調だった。片田達は博多の片田商店に入る。なぜか、商店入口の両側に小さな畑がある。
「無事に、お着きですね、ようございました」博多の店主、若狭屋四郎が出迎えた。
「よい航海でした。お元気そうでなによりです」片田が言う。なにしろ最後に彼とあったのは飢饉の前だった。よくあの飢饉を無事に乗り切ったものだと片田が言った。
「いえ、こちらは半島からも琉球からも、食べ物は入ってきますから、博多の中におれば、それほど難儀なことはありませんでした」
「ところで、店の前の稲と野菜の畑はなんですか」
「ああ、あれですか、五郎がやったんですよ。店の前に小さな畑を作って、右が硫安あり、左が硫安なし、として育ちの違いを宣伝しています。季節によって稲や麦を植えたり、葉物野菜を植えたりしています」
入口の左右にそれぞれ畳一畳程の畑を作っていたのはそういうわけだった。
「硫安が売れるようになったそうですね」
「はい、大量に注文が来ています。主に半島と琉球ですが、博多の周辺の農家からも買いに来ています。今回の航海で大量に持ってきていただいたとのことで、助かります」
今回の飢饉で、下は百姓から上は大名まで、蓄えの必要性を身に染みて感じていた。二年、三年続きの飢饉がおきることもある。そのときに生死を分かつのは日ごろの蓄えだと。そのために百姓は肥料で増産しようと考え、サトイモなどの副耕作物の畑を増やす。一部の大名は灌漑や開墾を試みようと考えた。
日本では、二毛作以降の肥料需要の高まりから、このころまでには魚や牛馬糞などの肥料が考え出されていた。しかし硫安はそれらをしのぐ効果があった。
「あの飢饉の後ですから、これから硫安は売れますよ」四郎さんが嬉しそうにいった。
片田は安宅丸や学生、村上氏から雇った水夫などと中華街の料理店に行くことにした。




