ヨーク公ヘンリー
「アタカマルの国には、宗教や、信仰というものはあるのか」十四歳のヨーク公ヘンリーが尋ねた。
レリジオ、フィーデスは、それぞれラテン語の religio, fides の事だ。ヘンリーは当時流行していたイタリア式の教会ラテンの発音をしている。
おそらく、お付きの人文主義者達の影響だろう。
「私どもにも宗教はございますが、御国ほどではありません。日常の生活では、あまり神は意識せずに暮らしております」安宅丸が答える。
彼は艦隊司令を退職してから外交官のような仕事を任されており、ロンドンのグリニッジ宮殿に派遣されていた。
ヨーク公ヘンリーとは、後のヘンリー八世のことだ。ただし、彼には兄アーサーがいた。ヘンリー七世の次の王はアーサーが予定されていたので、気楽な次男坊として育った。
アーサーは一四八六年生まれで、ヘンリーはそれから五年後の一四九一年に生まれている。
アーサーの洗礼式はウィンチェスター大聖堂で盛大に行われるが、ヘンリーのそれはグリニッジ宮で、身内のみで質素に行われている。
先に生まれるか、後で生まれるかで、天と地の差があった。
王位継承者のアーサーは、わずか六歳で、ウェールズ国境に近いラドロー城に単身で送り込まれ、形ばかりとはいえ、辺境統治者となり、主権者の実務を学んだ。
それに対し、ヘンリーはグリニッジ宮殿から南南東にわずか五キロメートルしか離れていないエルサム宮殿で、母や姉、妹、そして多くの女官たちに囲まれて育った。
帝王学と武芸を学ぶ兄に対して、華やかな宮殿で女たちに囲まれて育ったヘンリーは芸術や学芸を学んだ。
ヘンリーは後にリュートの名手になり、美声で歌い、作曲までこなすようになる。また英語以外にラテン語、フランス語を使いこなし、イタリア語、スペイン語も少しなら話せるようになっている。
アーサーは、彼が三歳のときに、ほぼ婚約が決まっていた。相手はアラゴンのフェルナンドとカスティーリャのイサベラの末娘、カタリナだった。イングランド風に言うとキャサリンである。
父親のヘンリー七世はリチャード三世を『ボズワースの戦い』で倒し、王に即位したばかりで、地位が不安定だった。それにフランスとは百年戦争以来、敵対していて、機会があればフランスの傀儡となる王をイングランドに立てようとしていた。
当時のヘンリー七世には国際的な承認が必要だった。
一方のスペインはフランスとの間に領土問題を抱えていた。
そこで、両者が婚姻で協力関係を強化しようとした。
一四八九年、メディナ・デル・カンポ条約が結ばれ、その条文に二人の婚姻が明記されていた。
しかし、両者は三、四歳にすぎない。政略の為の婚約だった。
時が過ぎ、一五〇一年になる。アーサーとキャサリンは十五歳だった。キャサリンがスペインからイングランドにやって来て、二人の結婚式が行われた。
兄の結婚の祝宴で、十歳の弟、ヘンリーは陽気に踊り回っていたという。
ここまでは順風満帆だった。
ところが、結婚式からわずか二十週間の後に、次代のイングランド王を約束されていたアーサーが流行り病で死んでしまう。
世間の目が、悲嘆にくれた新妻キャサリンの腹に注目する。彼女は懐妊しているのか。もし男子が産まれれば、その子がイングランド王になる。
しかし、彼女は妊娠していなかった。
気儘に暮らしていた次男坊が、イングランド王位継承者になってしまう。揺籃のように居心地のよいエルサム宮殿から、王の居城グリニッジ宮殿に住まいを変えられてしまった。
そして、いま、安宅丸の前にいる。安宅丸はヘンリーにお悔やみを述べ、死と宗教について話題を向けたのだった。
「それでは、そちの国では死んだ後の事は、どのように考えるのだ」ヨーク公が尋ねる。
「そうですな、良き行いをしていれば、極楽浄土というところに行けるようになっています。悪人は地獄にいくそうです」
「そのあたりは、似ているな」
「そうですね、しかし我が国の人々は普段そのことをあまり考えません」
「なぜだ、死後にどちらに行くか分からなければ、不安ではないのか」
「さて、そのあたりのことを考えたことがありませんが。おそらく普通の人間はみな極楽に行けると思っているんじゃないかと思います」
「罪を犯しているのにか。人間生きていれば罪を犯し続けるのであろう、そして常に司祭に告解し、罪を許してもらわなければならない」
「わが国の人々がおめでたいのかもしれません。皆それほど罪を犯していると考えてはいないのです」
「そうなのか」
「はい、そのようです」
「そのように、罪のことも、死後のことも考えずに気楽に生きていても、そちたちは我々よりも豊かに、そしてたぶん幸せそうに暮らしている。どういうことだ」
昨日まで気楽に暮らしてきた次男坊にそんなことを言われたくない、と安宅丸が思うと笑みが出そうだったが、それは言わないでおくことにした。
片田は、このヘンリー八世がイングランドの宗教改革を行ってしまうことを知っていた。なので、まだ若いヨーク公が宗教に対してどのような考えを持つようになるか、それを知ることも安宅丸に与えられた使命のひとつだった。
なので、このように探りを入れているのである。




