海軍工廠 (アルセナーレ)
一五〇五年の六月、フランシスコ・デ・アルメイダは十二隻の艦隊を従えて東アフリカの海岸に向かった。
史実では三月の出発で、二十二隻だった。しかし、春のオルダニー島偵察の結果、ポルトガル本国の近くに強力な敵がいることが判明する。そして、十隻は本国防衛のために残されることになった。
アルメイダは心細かったであろう。
彼の使命は、インド交易ではなくなった。そのかわり、アフリカ東岸のソファラなどに拠点を築くことになった。
ポルトガルの六月は良い季節だ。『三大聖人祭』が行われる。聖アントニオ、聖ヨハネ、聖ペドロそれぞれの聖人のお祭りである。
三人の最後、聖ペドロ祭が六月二十九日で、それが終わるとポルトガル王室は夏の離宮に移動する。
当時の王室の避暑地はリスボンから西に二十キロメートルほどにあるシントラ宮殿だった。
宮殿の標高は約百メートルで、それほど高地ではない。しかし、南側に標高五百メートルの山地があり、南からの高温の風を防いでくれる。それで涼しいのだ。
この季節、ヨーロッパ南部には、アフリカ大陸のサハラ砂漠から高温の南風が吹く。特徴的な風なのでシロッコという名前が付いている。
アフリカでは、この風をギブリと呼ぶ。スタジオ・ジブリのジブリは、このギブリから来ているそうだ。
宮殿は、この山地の北側斜面に寄り添うように建っている。
シントラ宮殿正面入り口の上、二階に『白鳥の間』という部屋がある。天井に幾つもの八角形の木組がほどこされ、その中に一羽ずつの白鳥が描かれている。
白鳥は中世ヨーロッパでは、純潔と忠誠の象徴とされていたという。
なので、この天井画は、広間に集う人々に王家への忠誠を意識させたのではないかと言われている。
この部屋の壁は白く、ドアや窓の縁はポルトガル特産のアズレージョという彩色煉瓦で飾られている。この部屋のアズレージョは、夏の離宮らしく涼やかな緑色だった。
その白鳥たちの下で会議が行われていた。
「ヨーロッパにおける、彼らの軍艦は三隻だけのようだ。煙を吐く船は他にもあるが、これらは商船らしい」
ジョアン・デ・メネセスが言った。彼はポルトガルのアフリカ植民地タンジールの総督で、一時帰国している。彼が続けた。
「大型艦は一隻、中型艦が二隻知られている」
これは戦艦『金剛』と巡洋艦『青葉』、『衣笠』のことを言っている。
『金剛』の艦長は金口三郎、『青葉』は絹屋五郎、『衣笠』は村上雅房だ。
絹屋五郎は、金口三郎同じく堺の船学校の第一期生だ。村上雅房は古くなった『加古』から『衣笠』に乗艦を替えている。
「この内の二隻はオルダニー島近海に常にいるが、中型艦一隻は地中海に入ってくる」
「なにをしているのだろう」
「彼らの地中海の拠点に向かう船団を護衛しているのだろう。北アフリカのジェルバ島だ」
「ジェルバ島といえば、ユダヤ人の多い島だろう。貝紫の島だ」
「そうだ。カタダ商会とやらは、ジェルバ島を拠点として、地中海沿岸で交易をしているそうだ。イスラムともよく取引をするという」
「軍艦は、その三隻だけだというのは、ほんとうなのか」ポルトガル王のマヌエルが尋ねる。
「彼らの船は黒い煙を出すので、目立ちます。また軍艦は彼らの商船よりも舷側が高くなっているので見分けられます。タンジールからは海峡を行く船がよく見えますが、彼らの船団に随伴する軍艦は常に一隻です」
「春にオルダニーに三隻いたのは、たまたま、ということだな」ヴァスコ・ダ・ガマが言った。
「おそらく、そうでしょう」
「なにか、策があるのか、提督」マヌエルがヴァスコに言う。ヴァスコは第一回航海の功績でインド提督に任命されている。
「数が少ない、というのであれば、方法もあるかもしれません」
「どいうことだ」
「ヨーロッパは、彼らの国から遠く離れています。インドよりさらに東にある、とも言われています。すぐに増援できるものではありません」
「そうだろうな」
「であれば、数が少ないうちに、潰してしまえばいい、ということです」
「どうやって潰すというのだ、六十門もの大砲を備えていると言っていたではないか」
「そのとおりです。しかし多数の大砲を備えていても、一回に狙える船は一隻でしょう」
「と、いうことは多数の船で襲い掛かればいいということか」王が言った。
「そうです。相手が三隻、あるいは二倍の六隻であっても、こちらが百隻で束になって襲い掛かれば、どうにもならないでしょう」
「それは、そうであろうな」
ヴァスコ・ダ・ガマが突飛なことを言っていると思うかもしれない。しかし、そうでもないのだ。
彼らの時代から七十年ほど下った一五七一年。地中海の南側を押さえたオスマン帝国とキリスト教同盟との間に『レパントの海戦』という戦いがあった。
このとき、双方ともに二百隻以上のガレー船その他をもって戦っている。
お互いに相当な建艦能力を有していたのだった。
たとえば、当時のヴェネツィアの造船所は、戦時ともなれば、流れ作業で一日に一隻のガレー船を就役させることが出来たという。
この戦いはオスマン帝国側が敗戦し、多数の艦を失った。母港に戻れたガレー船はわずかだったそうだ。
しかし、そのオスマン海軍も、敗戦の半年後には二百隻のガレー船艦隊の再建に成功していたといわれている。
彼らのイスタンブール造船所も、一日一隻以上のペースで建艦できたということだ。
これが、当時の地中海沿岸国の建艦能力だった。ヴァスコが百隻で囲めばいいと言っても不思議ではない。




