サイレン
ポルトガルの船隊がフランス本土の岬とオルダニー島の中間あたりまで進んだ。
通常の船舶はもっと北のイギリス海峡を通過する。彼らの針路はチャンネル諸島の中を通過することになるので座礁の危険があった。
島が異常な動きを察知したのであろう。島の方から何か連続する音が響いてくる。ポルトガル人が初めて聞く音だ。
初めてだが、なにか不吉な響きだった。サイレンの語源は古代ギリシア神話に登場する半人半鳥の怪物、セイレーンだという。
岩礁から美しい歌声をあげ、航行中の船舶を惑わして座礁させる。船乗りの敵だ。
セイレーンは、中世になると、なぜか半人半鳥から半人半魚の姿に変わる。
そして、現代では、有名なコーヒーチェーンのロゴデザインになり、コーヒー好きをおびき寄せている。
オルダニー島の東端が近づいてくる。周囲に岩礁が見えた。やっかいな島のようだ。彼らは南岸に開いている湾口を威力偵察することになっている。
つまり、湾口に近づき、ちょっと一発撃って、敵艦の反応を探って逃げる、という事だ。
その湾口の両岸には岩礁が延びていて、想像していたより湾の奥行きは深いようだ。
彼らが接近すると、湾から三隻の船が出てくる。大型一隻、小型二隻だった。小型といっても彼らのナオより大きい。大型のほうは、ナオの数倍はあるだろう。
それらの船は帆を上げずに出て来た。その代わりに黒煙を勢いよく吐いている。
ポルトガル側は大型のナオが二隻横に並んで前方を行き、小型のカラベル一隻が、ナオの左斜め後方を進んでいる。
舷側砲を使用した単縦陣という戦法は、まだ一般的ではなかった。
この船隊であれば、旗艦はふつうどちらかのナオである。しかし、この時のポルトガル船隊の旗艦は小型のカラベル、『サン・ジョルジュ』であった。ここに司令ヴァスコ・ダ・ガマが座乗している。
「出てきましたな」ヴァスコの隣に立つフランシスコ・デ・アルメイダが言う。
「うむ。敵艦隊の前を横切って、挑発してみよう」ヴァスコが、前方の大型艦二隻に、そのまま前進するように旗旒信号を揚げた。
風向きは、ポルトガル艦隊は左後方、相手方は左舷側の横風だった。ポルトガル艦隊が相手の頭を押さえるように前進する。
その時だった。相手方艦隊が前檣の帆を展開する。そして、同時に艦尾を泡立て、わずかに右旋回した。
「なにをやっているんだ」フランシスコが相手方の様子を見て言った。泡立ちといい、一部の帆を展開したことといい、我々の船とは動きが違う。しかも右旋回しながら増速している。彼が見ている間に、ポルトガル側の優位が失われ始めた。このままでは、相手艦隊がこちらの頭を押さえることになるだろう。
「これは、まずいですな」フランシスコがヴァスコに言う。
「うむ。しかし、もう少し様子をみよう。やつら、我々の風上側に回るはずだ」ナオ二艦とカラベルの間を横切るのではないかと言っている。
右旋回するに従い、相手方艦隊の前檣に展開された白い帆に黒煙があたるようになる。白帆が少し黒ずみはじめるのがみえる。
「だめです。明らかに前を押さえられてしまいます」
「しかし、相手は風下側だぞ。我々が有利だ」そういって、前方の二艦に発砲を命じた。
フランシスコの目に、ナオの船首砲の白い煙が見えた。相手方の艦の周囲に幾つかの水柱が立つ。相手方は発砲せずに、さらに増速した。
「まだ、速度を上げられるのか。彼らは明らかに我々の風下側に出ようとしています」
「どういうことだ、相手にとって不利になるであろう」ヴァスコはそう言った。彼らはどうしようとしているのか。もう一押ししてみるしかない。
彼らの目の前で行われている競争は、明らかに相手方の速度が優っていた。相手艦隊がポルトガル船の前、風下側を横切る。そして、横切りながら発砲した。
相手方の先頭艦が白い煙に包まれて見えなくなる。しかし、昨夜来の強風で煙はすぐに流され、先頭艦が姿を現した。フランシスコの目には、その艦が一回り大きくなったように見えた。
そして、ポルトガルのナオの左舷に、無数の水柱が立ち、遅れて発砲音がズシンと響いた。
「これはっ」ヴァスコが呻いた。
「あの大きな水柱を見てください。私たちの砲より口径が大きい」
「そうだな」落ち着きを取り戻したヴァスコが答えた。
「しかも、二十、いや三十発くらい同時に発射したようだ。あんなことして、船体が壊れてしまわないんでしょうか」
「さてな、大丈夫だと思って発砲しているんだろう」
「こりゃあ、かないませんな。彼ら威嚇射撃のつもりで撃ったんでしょうが、あれがまともにあたっていたら、大変なことになります」フランシスコが言う。
「そのようだ。いまのところはな」
「どうします。こんなの相手では」
「ああ、とんでもないやつらだ」ヴァスコが同意する。そして言った。
「逃げよう」ヴァスコが西南西の針路を命じる。




