黄金比 (おうごんひ)
レオナルド・ダ・ヴィンチがテレタイプ端末に座ってFOCALのプログラムを作っていた。ほんの二十行くらいの短いプログラムだった。
そして、印字されたコードと、手書きの紙とを見比べ、満足してリターンキーを押す。
『リターンキーを押す』などと書くと、ご老体ですかと言われそうだが、ここはリターンキーが正しい。
テレタイプ端末だからだ。
ENTERキーというのは、おそらくIBMが作ったキーだ。同社の大型計算機用端末IBM3270あたりから搭載されている。一九七〇年代の製品だ。文字通り、計算機に命令を投入するキーだった。
それに対して、テレタイプ端末は、タイプライターから派生してきた機械で、キーボードの向こう側に紙を前後左右に動かして印字するキャリッジというものがあった。
そのキャリッジを左から右に動かして、行頭に移動することをキャリッジ・リターンといった。リターンはそこから来ている。
昨夜は村の祭りだった。『かぞえ』が珍しく酒を飲もうといいだして、ワインを出してきた。
「お国のお酒を買ってみました。飲んでみましょう」
レオナルドが陶器製の壺を受け取ると、シチリア島産の白ワインだった。ラベルにそう書いてあり、女神アルテミスの下手くそな絵が描かれている。絵の下にアルテミスと書いてなければ、誰だかわからなかったろう。
「これは、日本のお酒より甘くて飲みやすいわね」『かぞえ』が感心する。
レオナルドも久しぶりに故郷の味に酔った。舶来の高価なワインをたちまち空けてしまう。そのあとは日本酒になった。
酔って来たレオナルドが半分トスカーナ方言で、美術に関する蘊蓄を語る。この方面では、『かぞえ』より一日の長があった。
「まっ、まず黄金比です、これで全体の構図を決め、次に遠近法です。遠近法といっても、単に中心から放射線を描けばいいというものではありません。空気です。空気の遠近法が重要なのです」たしかに酔っている。
「ひっ。黄金比なら、私だって知っているわよ」『かぞえ』が答える。
「『かぞえ』師匠が黄金比を知っているのですか、なんでです。美術の事はご存じないのでしょう」
「美術のことは、知らないわ。私が言っているのは、数学の黄金比よ」
「まあ、確かに数学でも黄金比は出てきますな」
黄金比の描き方はこうだ。
一辺が二の正方形ABCDを描く。左下をA、右下をB、左上をCとする。
ABの中点Mをコンパスを使って定める。AM=MB=1だ。
Mにコンパスの針を刺し、Cに鉛筆側を置き、ABの左延長上まで部分円を描く。
ABの延長と部分円の交わったところをEとする。円の半径は√5だ。
こうすると、MEが√5の長さになる。なのでEBは1+√5だ。
一方でABは2になる。
2:1+√5は黄金比だ。
整理して(1+√5)/2 = 1.6180……が黄金比になる。
「それだけじゃないわよ。こおいう数列、知ってる」『かぞえ』が絡む。
1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, ……
「これは、どこかでみたことがありますな。ひっく。え~と。ひっく。そうじゃ、わしと同じ名前のレオナナルド・ピサーノの『算盤の書』に出てくる。たしか、『ウサギの問題』の数列じゃ」
レオナルド・ピサーノとはフィボナッチのことだ。そして当時は、フィボナッチ数列という言葉はなかった。
「この数列は、前二つの数字を足したものじゃろ」
「しぃ~、ぷろぷりお(Si, proprio)。そのとおりよ」あやしいトスカナ語で答える。
「この数列が、ひっく。どうした」
「どれか数字を選んで、その数で、右どなりの数字を割ってみなさい」
「なんじゃと、いち、に、いってんご、いってんろくろく、いってんろく、いってんろくにいご……」
「どうよ」
「うむ、だんだん黄金比に近づいてくるようだが。頭がぐるぐるしてきた」
そこから先は記憶がなかった。
翌朝、昨夜のことを思い出したレオナルドがテレタイプ端末に向かい、先ほどのプログラムを作った。
そして、実行する。
N F(N-1) F(N) RATIO
2 1 1 1.0
3 1 2 2.0
4 2 3 1.5
5 3 5 1.6666667
6 5 8 1.6
7 8 13 1.625
8 13 21 1.6153846
9 21 34 1.6190476
……
25 46368 75025 1.6180339
26 75025 121393 1.6180339
27 121393 196418 1.6180339
28 196418 317811 1.6180339
29 317811 514229 1.6180339
30 514229 832040 1.6180339
DONE
FOCAL浮動小数点の桁数上限から八桁以上の計算は出来ない。
「これが、黄金比か」レオナルドが言った。彼の場合には幾何学的手段しかなかったので、黄金比を一.六二くらいとしていた。
「あら、もう起きていたの。なにしてたの」『かぞえ』が出て来て言った。
「これ、昨日の数列ね」
「ああ、そうだ。この数字が黄金比なのか。確かめる方法はあるか」
「あるわよ。レオナルドはすでにルートを知っているのだから、こうすればいいのよ」
そういって、テレタイプ端末に一行のコマンドを書く。
*? (1+SQRT(5))/2
先頭の?は、結果を表示せよ、という命令だ。 即座にテレタイプが数字を打った。
*1.6180339
「ね。同じ数字になったでしょ。これは黄金比のユークリッドによる幾何学的定義そのものよ」