飢饉の終わり
その年の末、年号が長禄から寛正に変わった。覚慶が春に涸れた田を見て言ったとおり、秋に収穫が無かったため、諸国で餓死者が急増した。年末には京の町のあちこちに餓死者の山ができ、埋葬することもできなかったという噂が伝わってくる。
片田が覚慶に、南洋米を送りたい、と文を送った。覚慶は、今、わずかの米が来たところで、苦しみを長引かせるだけだ、と言って断ってきた。
片田村の方には、最初の米輸送がうまくいったので、続けて米を送っている。片田村の人口を考えると、わずかな量であるが、気晴らしにはなるだろう。
ふう達の運河建設現場の米も、すべて南洋米になった。違和感があるようだが、餓死者が多数出ている時世に、飯が食べられるのはありがたいと思っているようだった。
建設現場には、周囲から大量の労働者が流れ込んでいた。
石之垣太夫は、来るものを拒まず、運河の開削と架橋を全速力で行っていた。ふうの水道橋は年末に完成した。
仕上げは、後回しにすることにし、とにかく運河の開通区間の延長に注力していた。なぜならば、運河が開通した区間の下流では、来年の日照りに備えることが出来るからだ。
ふうの水道橋が完成したので、運河の下流域は、来春には運河から水が回せる。
「俺の親も、百姓だったからな」太夫が『ふう』に言う。
「日照りの辛さは、いたいほどわかる」
「そうね」ふうが答えた。彼女も、とびの村で、水不足がどれほどつらいものか、知っていた。
「この運河ができれば、ここより北、平野、住吉、生野、もしかしたら、天王寺のあたりまで水が回せるかもしれん。どれほどの百姓が助かることか」
「開通しても、しばらく舟は浮かべられないかもね。水がみんなそっちに行っちゃいそう」そういって、ふうが笑う。
「それでもいい」
この時期、大和川は現在の流路とは異なっている。大和川は生駒山地を出た後、大きく北に曲がり、後の大阪城のあたりまで北上して海に注いでいた。大和川を現在の流路に変更したのは江戸時代の徳川幕府による。片田達の時代より二百四十年ほど後のことである。その工事は八か月で完成したとされている。
徳川幕府による流路変更の目的は大和川河口の水害対策であった。そのため、この流路変更の水面は低い位置にある。
しかし片田達の運河の水面は、今の大和川の水面より十メートル以上高い位置にあった。そのため、太夫が言うように、下流の広範囲を灌漑できる。彼らの工事が徳川幕府の流路変更の工事期間よりはるかに長い期間を要しているのは、高い水位を保ったまま工事をしているからである。
年が明け、春になった。暖かくなるに従い、京都では疫病が流行りはじめる。放置された餓死者から流れ出したものが川に流れ込み、病の素になった。
覚慶のいる法華寺には、流行り病は来ていない。
境内の桜が死者を悼むように咲き、散っていった。
早生の麦が収穫され始め、飢饉が収まりはじめたようだった。
「これで、飢饉も終わるのじゃろうか」覚慶は片田に文を送り、穀物があるようであれば、送ってほしいと依頼した。今ならば穀物は人を助けることが出来る。




