御召艦 (おめしかん)
今上陛下成仁様、すなわち後土御門天皇は明応九年九月二十八日に薨去された。在位中には応仁の乱、明応の政変などがあり、ご苦労の多い在世であった。
西暦ならば、一五〇〇年十月二十一日のことである。
後を継がれたのは勝仁様である。後の後柏原天皇だ。この御方は践祚後に『即位の礼』をあげるまで、二十一年待たなければならないほど困窮されていたのだが、この物語では片田商店が支えている。
践祚後、ただちに『即位の礼』を行った。まだ三十八歳で、壮健な方だ。
そして二年後の一五〇二年十月、観艦式を行う。御召艦となったのは、就役したばかりの戦艦『比叡』だった。
『金剛』と同型艦で、全長六十メートル、片舷三十門、両舷あわせて六十門の戦艦だ。巡洋艦『妙高』と『那智』を供奉艦として堺を出発し、淡路島を巡幸して堺に帰った。
天皇が船に乗るのは後醍醐天皇の隠岐脱出以来百七十年ぶりのことだ。なお、史上次に天皇が船に座乗するのは、明治四年(一八七一年)の横須賀での海軍天覧であろう。
この時は、明治天皇が装甲コルベット『龍驤』に座乗されている。
観艦式を終えた『比叡』は今回の作戦のための艤装の変更を行う。具体的には二隻の魚雷艇の搭載である。上甲板の両舷側に長さ六メートルの魚雷艇二隻が搭載された。
魚雷艇が使用する魚雷は、専用の魚雷運搬船に積み込まれる。
翌年の一月、艤装変更を完了した『比叡』が『妙高』『那智』と魚雷運搬船二隻を従えて、インドのコチンに向かう。約一二〇〇〇キロメートルの旅で、二十五日ほどかかる。
艦長は金口の三郎。鍛冶丸、鉄丸、銅丸が乗っていた。
石出の藤次郎も乗っていた。彼は陸軍に従軍したのではなかったのか。
実は、片田商店軍は、まだ明確には陸軍と海軍に分かれていない。なので、『比叡』の陸戦隊(海兵隊のこと)士官として乗艦していた。
一五〇三年二月二十日、『比叡』以下の艦隊がコチンに入港する。これほど大きな戦艦がコチンに入港するのは、『金剛』が寄港したとき以来だ。コチンの町で評判になる。
コチンのポルトガル商館は、これを警戒する。
『比叡』艦長の金口三郎がポルトガル商館に使者を出す。
ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は二月十日にコチンを出港して、現在カナノールで香辛料を積み込んでいる。入れ違いであった。
「アラビア海において、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒の商船を攻撃することを停止せよ。またマラバール海岸の港に対する無差別な砲撃も停止せよ。さもなくば、当艦隊はポルトガル艦隊を無力化する」使者はポルトガル商館長に、そう伝えた。メリ号襲撃、カレクト砲撃の件については、コチンの片田商店からのテレタイプ通信で知っていた。
「インド洋艦隊の提督は、すでに帰国の途にあり、コチンに駐在する我々には、ポルトガル国王の意に反する条約を他国と結ぶ権限がない」ポルトガル商館長は、そう答えた。
片田商店の艦隊がコチンで食料や水を補給し、二月二十五日に同地を出港してマラバール海岸で索敵を開始する。
『比叡』はカレクトに入港し、金口三郎がカレクト王と面会する。片田商店はカレクトとの通商条約を結んでいなかったので、まず、これを約す。
また、昨年の十一月一日から三日間行われたイスラム教徒の殺害と、カレクトへの無差別砲撃について調査した。死傷者数、住宅や施設の破壊状況などについて具体的な数字を挙げて調べた。そして、その結果については、カレクト国王が、事実であることを認定する添書きか加えられる。
報告書はテレタイプでオルダニー島に送られ、ラテン語や、各国語に翻訳される。
翻訳された文書は、飛行艇によりヨーロッパ各国の沿岸都市上空で、チラシとしてバラまかれることになるだろう。
片田商店の艦隊はカナノールのポルトガル艦隊に気付かなかった。それらは三月二十二日に、ポルトガルへの帰国の途につく。
ヴァスコは軍艦六隻をアラビア海に残し、マラバール海岸沖でのイスラム商船に対する封鎖、およびカナノールとコチンのポルトガル商館の保護にあたる。
アラビア海のポルトガル艦隊の旗艦はサン・ラファエル号だった。艦長のビセンテ・ソドレはヴァスコの母方の叔父にあたる。
以下ベラ・クルス号、ブレトア号、サンタマルタ号、ガリダ号、フラデザ号の六隻だった。
ブレトアまでの三隻が大型のナオ級で、残りの三隻はカラベル級だった。
ベラ・クルス号の艦長がブラス・ソドレ。これはビセンテの弟だ。ブレトア号の艦長はペロ・デ・アタイデという。
繰り返すが、ヴァスコは、この六隻の駐留艦隊にマラバールの封鎖と、カナノール、コチンの二つのポルトガル商館の保護を命じていた。しかし、ビセンテとブラスのソドラ兄弟は、とんでもない『くわせもの』だった。
ヴァスコの船団が水平線の彼方に消えるや否や、北に針路をとる。ムジャラートに向かい、チャウル沖(現在のムンバイ付近)でメリ号のような大型商船を襲う。さらに貿易風に乗って紅海入口のアデン湾へと向かった。
気分は狩猟だった。『ヒャーッホゥ』と叫んでいたかもしれない。
ヴァスコが心配していた通りになった。カレクトの王の多数の船がコチンに押し寄せた。その船に乗る兵数を五万と称した。
コチンはもともとカレクトの属国であったのに、ポルトガルと結んでカレクトに歯向かっているようなものだったからだ。
コチン片田商店からの無線連絡で『比叡』艦隊がコチンに駆けつける。
「もともと、カレクトもコチンもヒンドゥー教徒ではないか、仲間同士で争ってどうする」三郎がカレクト艦隊の司令官に言った。
「ポルトガルの商館だけを陥落させる。コチンの王と民は許してやって欲しい」そう付け加えた。
「やって見せてみろ、それが出来たならカレクト王に進言しよう」カレクト艦隊の指揮官が応える。そっけない態度だった。
「わかった、ではやってみせるから、見てろ」
『比叡』、『妙高』、『那智』の三艦がポルトガル商館のある河口付近に一列に並んだ。
まず、『比叡』の片舷三十門がポルトガル商館に向けて一斉に火を噴く。ついで『妙高』、『那智』の片舷十六門が順に続いた。それが、二度、三度、繰り返される。
イスラム教徒もヒンドゥー教徒も、それにポルトガル人達も、このようなものを見たことがなかった。
商館も、それを囲む柵も、まだ木製だった。それらが見ている間に崩れていき、火災を発生させた。
金口三郎が、いったん砲撃を停止させる。ポルトガル商館の残骸の中から、細い棒に結び付けられた衣服が振られた。降伏の意思表示だった。




