カンティーノの世界地図
ポルトガルのマヌエル王もヴァスコ・ダ・ガマもキリスト教カトリックだった。当時の彼らにとっては、イスラム教徒は敵だった。
イスラム教は旧約聖書や新約聖書を神の言葉として尊重しているが、カトリックから見れば異端であり邪教だった。
ローマ教会の教えこそ唯一の正義であり、イスラムもヒンドゥーも間違っていた。
加えて、西ローマ帝国が滅びて以来、ヨーロッパに対して中東は圧倒的な強者だった。
中世前期の地中海において、キリスト教徒は蔑まれ、狩られ、奴隷にされた。キリスト教徒の港は襲撃の対象になった。
特にイスラムが登場してから中東はさらに強力になった。
ムハンマド(マホメット)がイスラム教を始めて、わずか百二十年、西暦七三二年には、イスラム教徒はフランス中部のトゥール・ポワティエまで駆け上って来た。
この時は本当に危なかった。一つ間違えたら、ヨーロッパ全体がイスラム圏になり、カトリックという宗教は消えていたかもしれない。
胡椒などインド洋の産物については暴利を貪られた。イスラムの交易には両者の合意が必要とされていたので、暴利を貪っていたと言われては不本意だろうが、少なくともキリスト教徒は暴利を貪られていると、受け止めていた。
十字軍により聖地エルサレムを取り返したが、確保できたのは一時的だった。
そして、物語の時点の今もバルカン半島ではオスマンが、徐々にキリスト教徒の土地を奪っていた。
ここまでのところ、イベリア半島でのレコンキスタが、唯一のキリスト教の勝利だったかもしれない。
地中海は文明が衝突する海だったのである。
なので、キリスト教徒がイスラム教徒を敵視し、邪悪とみなすのも、わからないではない。
一方のインド洋は、交易の海だった。もちろん、戦争や海賊行為が無かったわけではない。しかし、中国の絹や陶磁器、東南アジアの香辛料や香木、インドの胡椒、アラブの馬、アフリカの金など、各地に特産品があり、それらをたがいに交換することにより豊かになって来た海だった。戦うより、交易する方が豊かになれる海だ。
特産品であっても、労働力であっても、交換するものがあれば、グローバリズムにより、お互いに栄える。
それが『エリュトゥラー海案内記』以来千五百年続いてきた。
ところが、そこに交換する商品を持たない乱暴者が入って来た。彼らが豊かになるためには強奪するか、搾取するしかない。
ヨーロッパ人が新大陸の金銀を手に入れるのは、もっと先の事である。
現代とは異なる形ではあるが、この時代のグローバリズムが終わる。
このあたりから物語が史実と離れていくので、その前に歴史上では、このあと何が起こったのか、書いておかなければならない。長くなるので、ポルトガルによるインド洋支配の歴史に興味が無い人は読み飛ばしてもかまわない。年表の先に、表題の『カンティーノの世界地図』に関する記述がある。
見やすくするため、アラビア数字を使う。
●ガマの第1回航海
1497年 7月 リスボン出発4隻
1498年 5月 インド到着
1498年 8月 インド出発
1499年 9月 リスボン帰着
【ガマの第一回航海の意義】
インド航路の発見
カレクトとの友好関係の樹立には失敗
●カブラルの航海
1500年 3月 リスボン出発 13隻
1500年 4月 新大陸発見
1500年 9月 インド(カレクト沖合)に到着
1500年12月 カレクトのポルトガル商館がイスラム教徒に襲撃される
カレクト港のイスラム商船を襲撃
コチン港で交易
1501年 7月 リスボン帰着、5隻(他、空荷で帰着2隻)
コチンとの友好、商館設置、ポルトガル王室歳費の8倍の金額の積荷を持ち帰る。
●ジョアン・ダ・ノヴァの航海
1501年 4月 リスボン出航 4隻
1501年 8月 インド到着
1501年11月 カナノールに商館を立てる
1501年12月 第一次カナノールの海戦。ポルトガル勝利、カレクト敗北
1502年 1月 インド出発
1502年 5月 セントヘレナ島発見
1502年 9月 リスボン帰着
第一次カナノール海戦は、史上初の縦列艦隊による海上砲戦
●ガマの第2回航海
1502年 2月 リスボン出発 15隻
1502年 4月 第2艦隊リスボン出発 5隻
1502年 7月 キルワに到着、これを服属させる(ポルトガル帝国の始まり)
1502年10月 客船襲撃
カレクト市街砲撃
1502年11月 コチン到着
1503年 2月 コチン出発
1503年 3月 カナノール出発、帰国
1503年10月 リスボン帰港
ポルトガル帝国の発生
民間に対する無差別攻撃の拡大
カナノールに商館設置
インド洋に常駐艦隊の配置
胡椒などの商品価格の固定交渉の成立
●アルブケルケの第1回航海
1503年 4月 リスボン出発 9隻
1503年 8月 ポルトガル艦隊がカレクトによるコチン包囲を解放
1503年~ コチンに要塞建設
1504年 9月 リスボン帰着
コチンの要塞建設
●アルベルガリアの航海
1504年 4月~1505年6月 13隻
●アルメイダの航海
1505年 3月 リスボン出発 20隻 3年間の駐在
1505年 7月 キルワに要塞建設開始
1505年 8月 モンバサ略奪
1505年 9月 インド、アンジェディヴァ島に要塞建設開始
1505年10月 カナノールに要塞建設開始
1506年末頃 三次に分かれた帰還艦隊がリスボンに到着
アラビア海沿岸各地五か所でのポルトガル要塞建設
●その後
1507年 ホルムズ占領、要塞建設開始、現地人反乱により建設失敗
1510年 2月 ゴア占領、要塞建設開始(アルブケルケ)(~1961年)
1511年 8月 マラッカ(マレー半島)占領(アルブケルケ)
1513年 マカオ付近に到着、明と交易を開始(~1987年)
1517年 広州(中国)に到達
1518年頃 コロンボ(セイロン)に要塞建設(アルベルガリア)
1524年 4月 ガマ第3回航海、リスボン出発
1524年12月 ヴァスコ・ダ・ガマ、コチンにて病死
1543年 種子島に漂着。鉄砲伝来
1549年 フランシスコ・ザビエル鹿児島(日本)に来航
1550年 平戸(日本)に到達
十六世紀前半、アジア貿易航路はポルトガルの独占となる。彼らはナオ級という五百トン前後の帆船を用いて胡椒、シナモン、クローブ、ナツメグなどの香辛料、染料、象牙、真珠などをヨーロッパに運んだ。ナオはキャラックともいう。その排斥量は百トン程度から八百トンぐらいまでと、非常に幅広い。
やがて、スペインのフィリピン到達(一五六五年)、オランダやイングランドのインド洋進出などで、ポルトガルの独占は破られていくことになる。
ポルトガルはアジア航路をヨーロッパの他国に対して秘密にしておきたかったはずだ。しかし、この情報は意外と早期に流出していたらしい。
『カンティーノの世界地図』というものがある。一五〇二年に作成されたとされている。Googleで『Cantino planisphere』と検索すると、英語版Wikiがひっかかるはずだ。そこで地図を見ることが出来る。イタリアの図書館に残っていた。
赤道が金色、南北緯度三十度が赤色の平行線で描かれている。
アフリカ大陸南端は南緯三十五度付近なのに対して地図では四十度あたりに描かれている。まあ、正確な方だろう。
インド亜大陸の南端は北緯八度に対して、地図上では北緯十度あたりになっている。これもだいたい正確だ。
マレー半島は不正確だ。実際の南端はほぼ赤道上なのだが、この地図では南緯三十度あたりになっている。アフリカ南端と同じくらいの緯度だ。一五〇二年にはポルトガルはマラッカに達していないのでやむを得ない。それでもマレー半島の南端近くにMalaquaという都市が描かれている。
地中海と黒海、それにヨーロッパとアフリカの海岸線は、かなり正確に描かれている。
グリーンランド、北米海岸の一部、カリブ海の島々、ブラジルなども描かれているのは面白い。反対にスペインやイングランド側の地図情報も、ポルトガルに流出していたのだろう。
アフリカの右にある赤いサツマイモのようなものは紅海だ。当時のヨーロッパ人は紅海が本当に赤いと信じていた。
紅海とナイル河口が随分と離れているが、実際にはここにスエズ運河が作れるほどに接近している。これを知ったら、当時のヨーロッパ人は随分と悔しがっただろう。
十字軍当時、あと少しで、インドへの道がひらけるはずだったのだ。
このカンティーノの地図はイタリア、モデナのエステンセ図書館という、エステ家私設図書館由来の図書館に保存されている。なぜイタリアにあるのか。
カンティーノとは地図製作者の名前ではない。イタリアのフェラーラ公エルコレ一世デステによってポルトガルに派遣されたスパイの名前だ。
エルコレ・デステは、イザベラ・デステの父親である。
カンティーノがエルコレに送った一五〇二年十一月十九日の日付の手紙には、この地図の入手に十二ドゥカードを支払ったと残されている。
当時としては、たいした金額だったのだろう。




