もう一枚の『イザベラ・デステの肖像』
湖畔の柳の枝が揺れて、飛行艇が戻って来た。上ずった笑い声をあげながら、イザベラが桟橋に降りる。
「すごいわ、レオナルド。本当に空を飛んだのよ。まるで鳥みたい。右にも左にも自由に曲がれるのよ」
興奮してそう言った。
「次は、わしが乗っていいのか」そう問いながら、レオナルド・ダ・ヴィンチはすでに桟橋を跨いでいる。彼も離陸していった。
「ロバート、あなたは空を飛びたくないの」ようやく興奮の納まったイザベラが尋ねる。
「私は高い所が苦手ですから」
飛行艇が着水して、桟橋に付ける。レオナルドが前席に座ったまま尋ねる。
「この機械は、どのようにして飛んでいるんだ」エンジンのアイドリングがうるさいので、ロバートが近寄って銀丸に通訳する。
「この主翼がほんの少し曲がっているんだ。なので、前に走ると、主翼に上向きの浮力がかかって、飛行艇が浮くんだ」
「なるほど、飛ぶよりも、前に走ることがまず必要だということだな。で、走らせるために、あの翼の上にある四角い機械があるのだな」
「そうだよ。あれ、エンジンというのだけど、回転する力を発生させる。エンジンがプロペラを回転させて、空気を後ろに押しているんだ」と言いながらエンジンを止めて、プロペラを見せた。
「このプロペラの羽根もすこし曲っている。なので、右回りすると空気を後ろに押し出すんだ」
「その程度のことで、あれほど速く飛べるのか、すごいもんじゃな。で、そのエンジンとかいう機械は、どうやって回転する力を生み出している。桟橋の缶の中の液体が関係しているのか」
「そうだよ。あの缶の中にはガソリンという火を点けると爆発する液体が入っている。エンジンの中には水鉄砲のような筒があって、その中にガソリンを吹き込んで点火すると、爆発して筒に入れた棒を押す。その押す力を回転する力に変えているんだ」
レオナルドが黙って考え込んだ。銀丸の説明から、自分の頭の中でエンジンの構造を検討しているのだろう。
「なるほど。出来そうだな。燃える水か。そんなものがあるのか。しかし、それがあれば、確かに出来そうだな」
銀丸が安心する。納得してくれたなら質問攻めから解放される。
「それでは、どうやって方向を変更できるんだ。左に方向を変えた時、左側に傾いていたようだが」駄目だ、銀丸が思った。
「主翼の左右に逆向きに動く補助翼があるんだよ。動かしてみるので、見てごらん」そういって、操縦桿を左右に動かした。
「確かに、小さい板が動いている」
「これを動かすと、機体が左右に傾くのはわかるよね」
「進行方向を軸にして、左右に回るのは理解できる。しかし、それでは左右に曲がれないではないか」
「例えば、左側が下になるように傾くと、機体が左下側に滑るのはわかるかな」
少し考えてレオナルドが答えた。
「なるほど、そうかもしれん」
「その時に、昇降舵を少し上に向ける。後ろの水平尾翼についている舵だ」そういって昇降舵を動かす。
「すると、どうなる」
「左側に滑り落ちながら、昇降舵の働きで左上に向かって進む」
「そうか、それで高さの変えずに左に回ることが出来るということだな」
「そうだよ。ふぅ」
「船の舵とは、曲がり方が異なるというわけだな」
「……」
「では、次にあの船の舵のようについているのはなんだ。あれは方向を変えるのに使うのではないとしたら、何に使うのだ」
「方向舵のことだね。実際には向きを変える時方向舵も少し使う。ただ、方向舵だけで曲がろうとしても、うまく曲がれない。左右に首を振るだけだ」
「それだけか」
「あとは、横風を受けて着水する時に着水する瞬間に使ったりもする」
「では、次だが……」
「レオナルド、もうおよしなさいな。若者が困っているわ」
「しかし」
「彼はこれからアドリア海まで帰らなければなりません。フィレンツェ沖に彼の艦が待っています」ロバートも言った。
ここまで、レオナルドは前席に座ったままだ。動こうとしない。
「では、その艦とやらに連れて行ってくれ。まだ質問したいことがたくさんある」
「しかし、レオナルドさんはお仕事があるのでしょう」
「いや、ナポリの仕事は無くなった。いま求職中で、特にやることはない。それよりもこの知識を獲得することのほうが重要だ」
「しかし、彼等はラテン語を話せませんよ、行っても学ぶことはできません」ロバートが言った。
「ヴェネツィア語をしゃべるユダヤ人ならいるけど」銀丸が言う。ベンヤミンとサイラスのことだ。
「おおっ。それで充分だ。やはり彼らの艦に行くことにする」
「本当に行かれるのですか」イザベラとロバートが言う。
「うむ。こんなものを見て、黙っていられるわけがない」
ロバートが銀丸の方を見た。
「まあ、いいけど。燃料は二人乗りでも足りると思う。ちょっと艦長に尋ねてみる」
銀丸の言葉をロバートが翻訳すると、レオナルドがニヤリと笑った。
銀丸が何かを操作してしゃべり始める。
「誰としゃべっておるのじゃ」レオナルドがロバートに尋ねる。
「さあ、さっぱりわかりません」ヘッドセットを使っているので、ロバート達三人には相手の声が聞こえない。
銀丸が会話を終えた。
「レオナルドさんが艦に来てもいいって。歓迎するそうだよ、そう艦長が言っていた」
「ちょっと待て、今おまえ、アドリア海に浮かんでいる艦と会話していたというのか」
銀丸はしらばっくれた。これは秘密だ。
ガソリン缶で持ってきた燃料を飛行艇に補給して、ガソリン缶は桟橋に置いていくことにする。
銀丸とレオナルドが乗った飛行艇が離水して、遠くの空に消えて行った。
「まあ、レオナルド、私の素描を二枚とも置いていったわ」イザベラが言う。
「たぶん、したいだけ質問したらピサかどこかで船を降りて、帰ってくるでしょう」
史実では、西暦一五〇〇年にフランスがミラノ公国を攻めた時、レオナルドはミラノから避難し、一時マントヴァのイザベラ・デステを訪ねている。
ヴェネツィア経由でフィレンツェに戻ったのではないか、という説もあるが、その直接の証拠がない。
次にレオナルドが歴史に現れてくるのは一五〇二年、チェーザレ・ボルジアに雇用される時だ。
ミラノ時代の彼の手稿に描かれた飛行機械はヘリコプターやオーニソプター(鳥のように主翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機)だった。それに対し、一五〇二年以降の手稿に現れる飛行機械は、固定翼のハンググライダーのような飛行機に変化する。
この間に何かがあったのかもしれない。
また、イザベル・デステの素描画についてであるが、十九世紀に発見されて以来、この素描一枚が残っているだけだ、と考えられてきた。
しかし、二〇一三年十月にスイス銀行の保管庫から、彩色されたイザベラ・デステの肖像画が出て来た。寸法がほぼ同一で、輪郭線も素描と一致した。
さらに画材の年代測定から十六世紀初頭頃のものであり、レオナルド・ダ・ヴィンチが使用していた材料に類似していたという。
もしかしたら、飛行機械を操る日本人を紹介してくれたイザベラに感謝して、彩色肖像画を完成させたのかもしれない。
もしそうであるならば、これはイザベラ・デステ二十五歳の肖像画、ということになる。
この肖像画のイザベラは、赤い縁の黒衣を着て、金のティアラを付けている。手に持っているのはヤシの葉だろうか。西洋絵画においてヤシは勝利の象徴である。
本当にレオナルドがこの肖像画を描いたのだとしたら、実際に飛ぶ飛行機を知ったことがよほどうれしかったのだろう。
 




