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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
533/636

ウルガタ聖書

「ジロラモ・サヴォナローラさんですか」


 振り向くと、僧服の若者がいた。カソックという黒い僧服をまとい、頭にはやはり黒の学者帽をかぶっている。肩に背負い袋を提げていた。三十歳くらいだろう。

 立ち木のほとんど無い、オルダニー島の草原を背景に立っていた。


「僧侶か。島のこちら側には、普段西洋人は入ってこないはずだが」

「片田順さんに招かれましたから。ヘンリー王子の紹介で、この島に来ました」

「ヘンリーとは、あの生意気なヨーク公の小僧か」後のヘンリー八世のことだ。この時、八歳になっている。


「まあ、そうです」

「見た所、学者のようじゃが。わしのような破門された僧に何の用があって来た」

「これを拝見したからですよ」

 そう言って、背負い袋から『二十一か条の論題』が印刷された紙を取り出す。サヴォナローラがそれを見た。

「よかろう、ではわしの小屋に来るがいい」


 小屋の中で二人が向き合う。サヴォナローラが改めていった。

「確かに、わしの論題じゃが、そなたは誰じゃ」

「申し遅れました。私はロッテルダムのエラスムスといいます。ラテン語学者です」そう言って、人懐ひとなつっこそうな笑顔をみせる。


「あなたは、この提言の中で信者自身が神と対話すべきではないか、とおっしゃっています。それに興味を持ちました」

「ローマ教会が腐っておれば、そうするしかあるまい」

「そうですね。私はローマにもイタリアにも行ったことはありませんが、いろいろなことは聞いています」

「そうか」

「僕も同じ考えです。ローマ教会が信仰のよりどころにならないとすると、信者は聖書を通じて神と語るしか方法がありません」

司祭しさいくらいは、いてもよいかもしれんがな」

「はい、そうですね。で、そうだとすると、いままで以上に聖書が重要だと考えたのです」

「なるほど、そうなるかもしれんな」

「で、聖書には、本当は何が書かれていたんだろう、そう考えました。サヴォナローラさんは新約聖書がもともとギリシア語で書かれていたことはご存じですよね」

「それは知っておる。グレコ達がなにかというと自慢する」


 グレコとは滅んでしまった東ローマ帝国、あるいはそこにあったギリシア正教会のことを言っている。日本の歴史の教科書では東ローマ帝国とかビザンティン帝国などと呼ぶが、カトリックからみれば東ローマなどとは、とんでもない名前であって、ローマはイタリアのローマ以外にはない。彼らはただのグレコ、つまりギリシア人だ。


「僕はいま、ギリシア語を勉強しているのです。そして、聖書に本来何が書かれていたのか調べるつもりです」

「それは、面白い試みかもしれぬ」


 意外なことに、サヴォナローラは関心を示した。以前のサヴォナローラだったら、メディチ家に飼われたウマニスタか、と唾棄だきしただろう。

 ウマニスタは『人文主義者』と訳される。英語だとヒューマニストだ。しかし、現代の日本語のヒューマニスト、ヒューマニズムは現代的な意味で「人道主義」とか「博愛主義」といった意味で使われている。

 ルネサンス期のウマニスタはギリシア・ローマ古典や聖書原典の研究をした人々で、それらを通じて神や人間の本質を考察した。

 なので、この小説では区別するためにウマニスタと言っておこう。


「たとえば、ですね。ちょっと待っててください」そういって背負い袋の中から紙箱を取り出す。中には大量のメモや草稿が入っていた。エラスムスはメモ魔だった。


「これです。私が衝撃を受けて、ギリシア語聖書の研究をしようと考えたきっかけです」

「なんじゃ」

「マタイによる福音書三章二節です」

「『あらためよ、天の御国みくにが近づいた』これがどうした」


「ギリシア語聖書の『悔い改めよ』の部分は metanoeîte です。ギリシア語の本来の意味は、心を変えよ、とか、方向転換せよ、という意味です」

「ふむ。ローマのラテン語聖書では Poenitentiam agite じゃ。『悔い改めの行動をせよ』じゃな」

「そうです。本来の聖書は行動をしろとは言っていないのです、自らの考えを変えろ、と言っています」

「つまり、苦行くぎょう告解こっかい善行ぜんこう贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)などによる教会のゆるし、そんなものではない、といいたいのじゃな」

「そのとおりです、告解など教会に命じられた行動をなすことではなく、自らの心の問題だと聖書は言っているのです」

「そして、それを知ったときの衝撃といったら、言葉になりませんでした」


 キリスト教の聖典は旧約聖書と新約聖書である。ただし宗派により旧約聖書の範囲は多少異なる。

 旧約聖書は、当初ヘブライ語で書かれたとされている。新約聖書はギリシア語だった。


 ヘブライ語は紀元前一二〇〇年頃から六〇〇年頃のあいだ、ユダヤ人達が使用していた言葉だ。その後アケメネス朝ペルシャ帝国がおこり、支配下となった当時のイスラエル付近ではペルシャの言葉、アラム語が使われる。

 イエス・キリストも恐らくアラム語で説教していただろう。ヘブライ語は宗教用語、ないしは文語になった。現代のラテン語のようなものだ。

 このような経緯いきさつなので、旧約聖書はヘブライ語で書かれた。

 なお、いったん文語になったヘブライ語だったが二十世紀に口語として復活する。イスラエルはヘブライ語が公用語になっている。


 では、なぜ新約聖書は、ヘブライ語ではなくギリシア語で書かれたのか。これは、おそらく伝道が目的だったからではないか、と言われている。

 アレクサンダー大王の東征以降、ギリシア語はこの地域の共通語だったからだ。


 そして、ヘブライ語とギリシア語で書かれた新旧の聖書をラテン語に翻訳して、決定版としたのが聖ヒエロニムスだった。紀元四世紀末から五世紀にかけてのことだ。これを『ウルガタ』という。

 以来ローマ教会は、このウルガタ聖書を金科玉条きんかぎょくじょうとして、壮大なスコラ学を建設することになる。


 しかし、そのウルガタに誤訳がある、この若者はそう言っている。

 サヴォナローラの方は、ローマ教会を信仰から外す手段になる、と考えていた。


 この『悔い改めよ、天の御国が近づいた』の部分については、後にルターも影響を受けていて、彼の『九十五か条』の嚆矢こうしには、この言葉について書かれている。


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