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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
529/611

活版印刷機 (かっぱん いんさつき)

 巡洋艦『加古かこ』がイギリス海峡に入る。イタリアに比べ、ずいぶんと北に来ているので五月はじめでも少し肌寒い。

 ピサからオルダニー島まで、約四千キロメートルの航海である。平均十五ノット(時速二十七キロメートル)で七日間の旅になる。

 後部甲板でジロラモ・サヴォナローラが手にした数枚の紙片に目を落としている。

 航海の間に、ずいぶんと回復したようだ。

 拷問の目的は、自白を引き出すことにあり、体そのものを痛めつけるのが目的ではない。なので、拷問の方法にもよるが、一般的に回復は速い。


 彼はイタリア半島に生まれ、生きてきたが、海も外洋船も、一度しか見たことがない。十数年前にジェノヴァのサン・ドミニコ教会で四旬節しじゅんせつの説教を行った。その時に海と船を見ただけだ。


「ジロラモさん、ずいぶんお元気になりましたね」シンガが言う。

「ああ、おかげさまでな。船医に、たまには日にあたったほうがいい、といわれて上に出てきた」

「その紙は、一昨日おとといお渡ししたものですか」

「そうじゃ。面白いことが書いてあるもんだ」

「『じょん』社長が、ジロラモさんが元気になったらお渡しするように、と言っていました。キリスト教の事がかいてあるようなのですが、僕にはよくわからなかったです」

「そうじゃろうな、これはキリスト教の信者や、学者じゃないとわからない。九十五の論題プロポジティオーネスが書かれている」

「論題ってなんですか」

「そのことについて、学者同士で議論をかわそう、という趣旨じゃ。普通はこの論題を教会や大学の掲示板に張り出し、日時を併記へいきして集合することになっている」

「議論、ですか」

「そうじゃ、シンガにもわかりそうなものは、そうだな。二十八番あたりが、一番わかりやすいか。こう書かれている『金が箱の中でチャリンと鳴ると、教会の利得と貪欲どんよくは増すが、教会のなすべきところではない』だ」

賽銭箱さいせんばこのことですか」

「まあ、そのようなものだ。献金をすると教会の利益が増す。この場合の献金とは贖宥状しょくゆうじょうの購入だ。この紙を買うと、キリスト教徒の罰が許されるという」

「金で、自分の起こした罪に対する罰を逃れることができるということですね」

「そうじゃ、ものわかりが速いな」

「それ、あんまりいいことじゃないと思います」

「そうじゃ、だから論題として出して議論しようといっているのだ」

「なるほど」


「これは、贖宥状の乱発に対する義憤ぎふんの提言じゃろう。まだ若者だ、支離滅裂しりめつれつな部分がある。ラテン語で書かれているが、イタリア人ではないな。まだ、教皇のことを尊敬している。ローマの腐敗を知らない」

「贖宥状を、これほど嫌っているところを見ると帝国ドイツの若い学徒じゃろう、年は三十歳くらいなものか」

 贖宥状がもっとも発行されたのが、神聖ローマ帝国内だった。当時、帝国は『ローマの牝牛めうし』と陰口を叩かれていた。

「よくわかりますね」

「お前様には、わしはただのポンコツデービリスにしか見えないじゃろうが、こうみえても修道院の院長をしていたからな」


「で、『じょん』社長は、これをわしに渡して、どうするつもりなんじゃろう」

「さて、そのあたりは、僕は知りません。もうすぐオルダニー島に到着しますから、直接聞いてみてください」

「なるほど」


 シンガがジロラモに渡した書類とは、マルティン・ルターが一五一七年にヴィッテンベルクの教会に掲示した『九十五ヶ条の論題』の写しである。

 片田が未来から持ってきた。彼はラテン語が読めないので、ところどころ転記ミスもあった。

 ミスはあるが、この『論題』が史実より十九年早く登場することになる。


 二人の話題が切れた。

「わしがなんで、お前様の誘いにのって脱出したのか、話しておかなければならん」サヴォナローラが切り出した。

「あ、そのことですか。僕も不思議に思っていたんです。何故急に逃げることにしたんですか」

「お前様の言ったことを聞き違えたんじゃ」

「どういうことですか」

「『じょん』社長(Praeses Ioannes)じゃ」

「そう、いいましたけど」

「それを、わしは Presbyter Ioannesと聞き違えた」

「プレスター・ジョンって、誰ですか」

「伝説じゃよ。イスラム教徒の国の向こうに、キリスト教の国があり、そこの国の王がプレスター・ジョンという」

「と、いうことは」

「うむ。キリスト教徒の国々は、我々のカトリックとギリシア正教の国々の二つがある。そのどちらにしろ、それぞれの国では教会が強い力を持っている。なので、わしは、ローマ教会を何とかしなければならない、と言った」

「塔の中で、そうおっしゃっていましたね」

「そうじゃ。しかし、どちらでもないキリスト教国があれば、そこに行き伝道の道がある、そう思ったのじゃ」

「なるほど、そういうことだったんですか」

「だが、船に乗ってお前様と話していると、どうも『じょん』は国王でもキリスト教徒でもない」

「はい、すいません。違います」

「それは、いい。聞き間違えたのは私だ。それにもう、逃げてきてしまっているので後戻りはできない」

「そうですね」

「キリスト教徒ではないが、恐らくキリスト教徒の争いに、なんらかの関心があると見た。それならば好都合じゃ。わしに居場所と時間を与えてくれれば、わしのローマ教会に対する闘いを支援してくれることになる」

「それは、大丈夫だと思いますよ」

「なにしろ、『じょん』社長はこの提言をわざわざわしにもたらしたのじゃ。と、いうことは、わしにローマ教会と闘え、といっているようなものじゃ」

「そうかもしれませんね」


「この提言は、未熟なところもある。なので、わしがこれを整理してやろう。そして広くカトリック世界に提示してみようではないか」

 サヴォナローラは、これを二十の論題にまとめた。その中では、ローマ教会を腐敗している、と断罪している。

教皇が贖宥状でゆるすことが出来るのは、教皇自身が発行した罰についてだけであり、煉獄の罰が消されることはないのではないか。

そして、贖宥状の購入についての疑問と、教会の貪欲についても書いた。

また、信仰については、教会が腐敗しているのであれば、信者はどうすべきか問う。そして信者自身が神と対話すべきではないか、とさらに問いかけている。

 サヴォナローラが作成した『提言』に、片田は一条だけの追加を要求した。


「キリスト教世界は、この地球のほんの一部にすぎない。キリスト教徒以外の人間も、キリスト教徒と同等の人間であり、対等に接すべきではないか」




 一四九八年というと、グーテンベルクの印刷術から半世紀が過ぎている。まずラテン語、ついでドイツ語の活字と活版印刷が整備された。イタリア語の活版印刷機はヴェネツィアで、フランス語の印刷機と活字はパリで、すでに手に入れることができるようになっていた。

 シンガはマーガレットからフランス語の手ほどきを受けている。


 サヴォナローラの『二十一ヶ条の提言』は、これら印刷機で印刷され、ドイツ、イタリア、フランスの沿岸都市で艦載飛行艇によりバラ撒かれた。

 もちろんサヴォナローラの署名入りだ。フィレンツェの住民はサヴォナローラが奇跡をおこした、と興奮する。

 シンガはドイツ語を知らなかったので、ドイツではラテン語版を撒いたが、またたく間にドイツ語に翻訳され、流通した。


 そして、『宗教改革』が始まる。


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