水車小屋の堰 (すいしゃごや の せき)
新藤小次郎が背負っていた背嚢から革製の胴着を出して身に着ける。背嚢の方はロープの先端に結び付けて、中庭に投げおろした。ロープのもう片方は狭間に結びつけてある。
「まず、私が降りて、中庭で待つ。あとは次郎五郎がやってくれる」シンガに言った。このあたりは事前に打ち合わせていたが、確認のために言っている。
そして、ロープを胴着の周りに二回巻き付けて、両手で持つ。左手の方は下手だった。狭間から下に飛び降りる。皮手袋をはめた手で巧みに減速しながら、塔の壁を三回程跳ねて、あっというまに中庭に降り立った。
皮手袋のおかげで、掌の皮がむけるようなことはなかった。
次郎五郎とシンガがロープの端を担架に結び付け、鉄製のクランクを使ってサヴォナローラを小次郎が待つ中庭まで降ろす。
「次はシンガお前だ。担架は無いので、縛ったまま降ろすぞ。麻酔をしてやりたいところだが、その後も歩いてもらわにゃならん。すまないな」そういって笑う。
「だ、だいじょうぶだよ」
シンガがロープで釣り降ろされて中庭に立った。まだ心臓がドキドキしている。
その時、中庭と五百人会議場の間の扉を開けようとする音がした。シンガがその方を向くと、小次郎が即席の閂で扉を閉塞していた。あまり長時間は持たない。
小次郎が塔上の次郎五郎に懐中電灯で合図する。モールス符号だった。次郎五郎が承知したと合図し、鉄製のクランクを五百人会議場の屋根に向かって投げつける。クランクが屋根瓦に当たり、派手な音がした。
扉を開けようとする音が止まる。
「五百人広間の方だ。あそこの屋根に誰かいるぞ」扉の向こうで、歩哨の声がする。歩哨達が音のした方に向かって去って行った。
これで、もうすこし時間が稼げる。
次郎五郎の耳に、塔下部の閉塞した格子蓋を破ろうとする音が聞こえた。もうすぐここに兵が来るだろう。露天回廊の歩哨が見つかったな、そう思う。
彼が狭間を乗り越える。そして、小次郎と同じように跳ねて、あっというまに着地した。
井戸の側道へも同じ順で降りた。小次郎、サヴォナローラの担架、シンガ、次郎五郎の順だ。そして小次郎と次郎五郎が担架の前後を担ぎ、下水道を進む。
地上では大変なことになっているだろう。市民がシニョーリア広場に集まり、消火隊を組織しているはずだ。
下水道の出口が見える。正面が燃えている丘なので、赤黒く光っていた。小舟に担架を乗せて、三人が乗りこむ。
次郎五郎が操舵機のアクセルレバーを握りながら始動紐を引く。一発でエンジンがかかった。
船首を下流に向けて加速する。ヴェッキオ橋の下をくぐる頃には周囲から幾つもの笛の音が聞こえた。
見つかった。
「もうすぐ、サンタ・ローザの堰だ、次郎五郎、スクリューを上げろ」小次郎が後ろに向かって叫ぶ。
「おう」そういって、操舵機を手前に倒し、スクリューを水面上に出した。水から上がったスクリューが周囲に水滴を振りまく。船底が堰の石に乗り上げた。
「ぐぅっ」サヴォナローラがうめいた。
「目が覚めたのかな」シンガが覗き込む。
「どうなっている」元院長が苦しそうに言った。
「アルノ川の舟に乗っているんだよ。もう大丈夫だ、逃げられたんだよ」
「そう……なのか」まだ朦朧としている。
「ありゃあ、タルタル・トリオじゃねぇか、なにやってるんだ」サンタ・ローザ塔の守備兵があきれる。
「さあな、山火事が起きる、ヴェッキオ宮殿の全ての窓が明るい、相当なことが起きているに違いないが、やつらのせいなのか」
サンタ・ローザ塔の上からはヴェッキオ宮殿の三階以上が見渡せる。深夜なのに、宮殿の窓、塔の窓、頂上、周囲の回廊、いたるところに明かりが見えた。沢山の松明を使って、何かを探しているに違いない。
サンタ・ローザ塔の前を、大きなエンジン音を立てながら、小舟が疾走していった。
その小舟の後を追いかけるように、アルノ川北岸の道を騎兵が走り始める。だんだん、その数が増えてくる。
町の門を出る頃には三十騎ほどが小舟を追跡していた。
「その小舟、待て」そう叫び、松明を背にした騎兵が走る。夜に全速力で走る恐怖からか、馬が白い泡を吐く。騎馬の方が小舟より速い。次郎五郎がアクセルレバーを全力で握る。
騎手が、短い槍を投げてくる。当たりっこないが、接近されたら、まぐれで当たるかもしれない。
次郎五郎がアルノ川の南岸に小舟を寄せる。北岸の街道を走る騎馬から距離をとった。
騎馬に並ばれた、追い越されると待ち伏せされるかもしれない。シンガがそう思った時、北岸のトラップが爆発し、ポプラの木が横倒しになった。
先頭の馬が驚き、騎手を振り落とす。二番手と三番手がポプラの下敷きになった。四番と五番は踏みとどまる。どうやら爆音に慣らされた馬のようだ。
「なんだ……いまの音は」サヴォナローラが尋ねる。
「罠だよ。宮殿に入る前にしかけておいたんだ」
一番目の罠から逃れた騎兵が二番目の罠にひっかかる。爆発。また数匹の馬が倒れる。罠が一つではないことを知った追跡隊が、追うのをあきらめた。
「次郎五郎、水車小屋の堰が近づいた」小次郎が叫ぶ。
「おう。スクリュー上げ。シンガ歯を食いしばれ」と次郎五郎。
こんどの堰、水車小屋の堰はカッシーネ堰とも言う。これはサンタ・ローザ堰よりも高低差がある。しかも二段の堰だ。
堰の石が船底を削る嫌な音がすると思ったとたん、小舟が下に向けて落ちる。そして、もう一度衝撃が来る。木のミシリッという音がする。小舟が壊れるんじゃないか、シンガが思った。
周囲に無数の水滴が飛び散った。
「院長さん、大丈夫」シンガが声をかける。
「……」
「あちゃあ。また気絶しちゃったみたいだ」
三人とサヴォナローラが、朝早くにピサを通過する。この町では昨夜フィレンツェで何が起きたか、まだ誰も知らない。
あらかじめ、無線でサヴォナローラ救出計画を知らされていた村上雅房の巡洋艦『加古』がピサの沖に停泊していた。
三人とサヴォナローラが『加古』に回収される。




