Sed Praeses Ioannes te requirit.
アルノルフォ塔の中ほどで三人が息を潜めている。シンガが大時計の動きを眺めながら時間をつぶす。
この時計は一三五三年にニッコロ・ベルナルドによって製造されたもので、現代の物とは違う。現在の時計は一六六七年にアウグスタ(アウグスブルク)のジョルジオ・レデルレが製造したものだそうだ。
「時計の中って、こうなってるのか」大小の歯車が動く様を見たシンガが言った。
錘がゆっくり降りるのが動力になっている。
「ドーンッ」という鈍い爆発音が聞こえた。
「はじまったぞ」新藤小次郎が言って木製の扉を開ける。シンガのところからもピッティ宮殿の丘が赤く燃えるのが見えた。二時間が経って、蝋燭から導火線に引火し、箱一杯の焼夷弾が爆発した。
小次郎が露天回廊に飛び出し、音もなく南西隅の歩哨に近づく。その向こうで丘が燃えている。歩哨が何かを叫んだ。彼はヘルメットをかぶっていなかった。
小次郎が歩哨の背後に近寄り、左手で歩哨の頭を掴み、右の拳で耳の所を撃った。歩哨が脳震盪をおこし、ヘナヘナと倒れる。左手、南東の歩哨を警戒しながら、同じように猿轡と拘束具でしばる。
小次郎が見ていると北側の二人の歩哨が、南東の歩哨のところに駆け寄ってきた。
“三人まとまったか、やっかいだな”小次郎が思う。
その三人が南の丘の炎を指さしながら、互いになにか叫んでる。
その時、アルノルフォ塔屋上の鐘がけたたましく鳴り出した。
少しして、南東の歩哨の一人が北側を指さし言った。二人がそれぞれ北側の持ち場に帰って行く。南東に残った歩哨が、南西の歩哨はどうなっているとこちらを見る。
倒した歩哨と小次郎は彼から見えないところに引き下がっていた。小次郎は内壁の向こうにしゃがんでいる。南西の歩哨が見当たらないことを不審に思い、近寄って来る。
南西の角に来たところで、内壁の陰から飛び出した小次郎が拳で歩哨の股間を殴る。脊椎神経に処理しきれない程多量の信号が流れる。全身の筋肉が麻痺し、立っていることも、呼吸することもできず、崩れた。これも拘束する。
小次郎が立ち上がって北方を見ると、北東の露天回廊で、次郎五郎がこちらに向かって手を振る。むこうの二人を始末したのだろう。
二人が塔に戻る。
「シンガ、少し上に登れ、ここの格子蓋を閉める」小次郎が言った。シンガがそれを聞いて、階段を数段登った。
小次郎と次郎五郎が垂直に立てられていた格子蓋を水平に倒し、階段を塞いだ。閂を掛ける。
「これであとは、塔の屋上の二人だけだ」小次郎がいった。三人が塔の屋上をめざして、階段を登る。
すでにフィレンツェの町は、南の丘の火災に気づいている。塔の中にいても、いくつもの教会の鐘が鳴らされている音が聞こえた。
階段の先に塔の屋上への出口が見えた。出口の周囲には鉄棒で手摺が作られていて、出口は南を向いている。
もう少し登ると南壁のM字型の狭間が見えてくる。その先に赤く照らされた煙が立ち上っていて、教会の鐘がうるさい程響いてくる。屋上の歩哨は二人とも南の火災に注意を奪われていた。これならば簡単だ。
小次郎と次郎五郎が一斉に飛び出して、一人ずつ始末した。そして、周囲を探る。頂上にはさらに四本の丸い柱が立っていて、その上には鐘楼がある。その鐘は鳴っていない。すでに周辺の教会の鐘が鳴っているので、初動の役目は終えているのだろう。
柱を回って調べる。他に兵はいない。大丈夫だ。二人が頂上から、一階下の張り出し部分に降りる。
「俺が担架を用意する、小次郎とシンガは院長を開放してやってくれ」次郎五郎が言った。
「わかった、シンガ、もう一階降りて独房に行こう」
「わかったよ」
「ただ、シンガ」
「なに」二人が階段を降りながら話している。
「酷いものを見ることになる。お前はそんな経験はないだろうから、覚悟をしておけ」
「え、なにそれ」
「本当は、お前に見せたくないが、お前じゃないと、院長とまともな会話ができない。堪えてくれ」
そういって、小次郎が独房の扉の前で合いカギを出して、扉を開けた。この一年の間、合いカギを作る時間はいくらでもあった。
布団もシーツもなく、人間の残骸のようなものが、独房の石の床に横たわっていた。
意識はあるらしい、こうつぶやいた。
「今夜は……やけにさ……わがしい」
シンガが、なるべく、その男の方を見ないようにして、言った。
「ジロラモ・サヴォナローラ、サン・マルコ修道院院長さんですか」ラテン語で話しかけた。
「あ……そうだ……そうだった。今は……破門されている」相手がラテン話者なので、安心したらしい。
「わかりました。苦しいのであれば、黙っていて結構です。我々はあなたを助けに来ました。一緒に脱走しましょう」
「脱走だと、なにを言っているのだ。わしはここでさばきを受け、主のもとに行くのだ」
「死んじゃったら、院長様の立派なお考えが途絶えてしまいます。生きてそのお考えを世界に広げて、キリスト教会を浄化してください」
「修道会に残った者達が志を、ゲホッ、継いでくれるじゃろ」
「彼等だけじゃあだめです。院長様のような強い意志の御方が必要なんです」
「しかし、逃げて、どこにいくのじゃ」
「イングランドの小さな島に院長の居場所を用意しました」
「ローマ教会ではないのか、あの教会をどうする」
「ローマでなくても、どこにいたって院長様の教えは布教できます」
「ローマ教会をどうにかしないと、なにもできぬ」
「でも、『じょん』社長が、あなたを必要としているんです」
(Sed Praeses Ioannes te requirit.)
「社長なら、なんとかしてくれるでしょう」
「なに、ヨ、ヨアンネスだと……ひ、ひ、ひ、ひ」
「笑っているのですか」
「そうじゃ、笑うと痛い……そうか、そういうことか。それでローマの外で、とな」
「なんで気付かんかったのじゃろ。そういうことか……わかったよ」
「わかったとは」
「一緒に逃げてやろう、ということじゃ」
「いいんですか」シンガが叫ぶ。
「ああ、どうせ逃げるとなったら手荒なことになるのじゃろ、わしは少し眠る。その間に逃がしてくれ」
おそらく、絶え間ない激しい苦痛で、気を許すと気絶してしまうのだろう。
「同行してくれるって、そして眠りたいって」シンガがトスカーナで小次郎に言った。
「よかろう、最初から、そのつもりだ。シンガ、少し後ろに下がっていろ」そういって小次郎が背嚢から小さな瓶を取り出し、中の液体を布に浸み込ませてサヴォナローラの鼻を覆った。
なにかの麻酔薬なのだろう。
「おう、担架の準備が出来たぞ」そういって次郎五郎が独房に入ってきた。水汲みに使っていた二つの木樽を解体して、一つの担架にしていた。どうりで『ごつい木樽』だったはずだ。
「今、眠らせたところだ」小次郎が答え、麻酔の布を独房の隅に投げ捨てる。二人が手早くサヴォナローラを担架に移動させ、ロープで括り付けた。
二人が担架の両端を持ち、屋上にあがる。シニョーリア広場の方から、たくさんの人のざわめきが聞こえる。
「小次郎さん、最初から麻酔で眠らせるつもりだったら、拷問の前でもよかったんじゃ」シンガが尋ねる。
「いや、院長は頑固だ。本人が同意しないのに攫っても、言うことを聞かないだろう」




