トラップと陽動 (trap and demonstration)
日没後、アルノ盆地の西側を囲むキアンティ丘陵の山際が赤から黒に変わる。見上げると夜空の星が増えてきた。
シンガと二人の男達が岸辺のヨシに囲まれた小舟に乗っている。小さいが帆柱が一本立っており、それだけがヨシの茂みから上に突き出ている。
舟の前後から蚊取り線香の白い煙が上る。
「そろそろ、いいだろう」新藤小次郎が言った。小舟を岸に寄せ、三人が上陸する。土手を登るとフィレンツェの町から西に延びる街道がある。
中世末期のこの時期、夜間に街道を往来するものは、まずいない。
街道の両側には街路樹が一定間隔で植えられている。川と街道の間はポプラ、道を挟んだ反対側には太いプラタナスが規則的に並んでいる。
シンガが道の向こう側に行き、懐中電灯を使ってプラタナスの幹に紐を結びつけて戻って来る。地上一メートルくらいの所に、道を跨いだ紐が宙に浮いている。皮手袋をはめた手でシンガが紐を差し出す。作業しやすいように指先の所が切れている手袋だ。
新藤小次郎が、同じ手袋をした手で紐を受け取り、言った。
「シンガ、危ないから離れていろ」
「わかったよ」そういって小次郎から離れる。
小次郎のほうは、背の高いポプラの幹になにか箱のようなものを縛り付けていた。爆薬だ。箱の上端に金属の輪が付いている。そこにシンガが持ってきた紐を結びつける。
そして、余った部分を慎重にナイフで切り取り、その場を離れる。
「よし、次に行くぞ」二人が小舟に戻る。
街道を通過する者が、紐に引っかかると、金属の輪が外れ、撃針が雷管を叩き、爆薬が爆発する。
そして、ポプラの木がなぎ倒され、街道を塞ぐことになる。
あと二か所、フィレンツェの町に近づきながら、同じように爆薬を仕掛け、フィレンツェの町に帰る。
フィレンツェの町は城壁に囲まれているが、アルノ川のところに城壁を置くことはできない。なので、開けた所の両岸に塔が建てられていて、常時監視者が立っていた。
塔の下の所は堰になっていて、岸のところに小舟を通す『船通し』が設けられている。
なので、舟は自力で上流に向かうことができない。
シンガ達は下流からアルノ川を遡り南岸に接岸しようとしていた。右手にどこまでも城壁が延びていて、川岸にサンタ・ローザ塔が建っている。
小次郎が松明に火を点けて、塔に向かって振る。
「夜分に何者だ。夜間は通行禁止だぞ」塔から誰何の声がする。
「すまない。下流のシーニャまで急ぎの荷物を運んだんだけど、風向きが悪くて夜になったんだ」シンガが答える。
「その声は、タルタル・トリオか」
「ああ、そうだよ。シンガだよ」
「搭乗者全員、その松明で顔を照らすんだ」
三人が言われたようにした。
「どうやら、タルタル・トリオで間違いないようだな。よかろう城内に入ってもいい」
「ありがとう」
サンタ・ローザ塔は、彼等の宿から近い、暇な時に塔の監視兵に頼まれたことをやったりしていたので、大目に見てくれた。
「よし、じゃあ堰を越す手伝いをしてやろう」そういって三人ほどの監視兵が降りて来て、舟が河道を上るのを手伝ってくれた。
三人の乗った小舟が、音も無く塔の前を過ぎ、上流に消える。その様子に、なにかいつもと違うな、そう塔の上から見下ろす兵が思った。けれど、なにが違うのか気付かなかった。
昼間の間に小次郎と次郎五郎が櫂の台座にオリーブオイルをたっぷり塗った。なので、木の軋む音がしない。まったく無音で上流に上って行ったのだ。
ないものに気付くのは難しい。
いつもならば、塔を過ぎてすぐのソデリーニ通りの岸に小舟を寄せる。しかし三人の乗った小舟はそのあたりで松明を川面に入れて消し、さらに上流に向かった。
ヴェッキオ橋の下をくぐり、デ・バルディ通りがアルノ川に面した所につけ、上陸する。
松明を点けてはいない。夜間には、市内であっても無灯火で往来すると、それだけで逮捕される。
なので、なるべく市街路を通る距離を短くした。目的地はピッティ宮殿の裏山だ。
次郎五郎が舟に残り、小次郎とシンガが目の前の短い階段を登り、現在ピッティ宮殿の敷地になっているところに入る。
ピッティ宮殿は、現在ではその立派なファサード(建物正面)と、背後のイタリア式庭園で有名だ。
この宮殿は、フィレンツェの有力な銀行家、ルカ・ピッティによって、一四五七年に建設が始められた。しかし、一四七二年にルカが死亡すると工事が中断される。
シンガ達の時代のピッティ宮殿は、今の三分の一程の幅のファサード部分だけで、翼廊も、背後の庭園もなかった。
現在のような壮麗な宮殿になったのは、シンガ達の時代から百年ほど後のことだ。フィレンツェに復帰したメディチ家がこの宮殿を購入して、ほぼ半世紀かけて現在のような形にした。
現在庭園のあるところは、藪が茂る丘になっていた。その藪をかき分けて、丘の中腹まで登る。そこに鉈で切り開いた空き地があった。
油紙で包まれた何かがある。小次郎がその油紙をはがす。
真ん中に木箱があり、その隣にカンテラが置かれていた。
数日かけてシンガ達が運んだものだ。毎朝、塔の掃除に行く前に、ここに寄って運んだ。
小次郎がまた懐中電灯を点け、カンテラの中を覗く。中には太いロウソクが立っている。そして、先端から六センチ程下の所に、厚紙製の円盤がロウソクを囲むように置かれている。厚紙の下には導火線が巻かれていて、それが箱の中につながっていた。
円盤は、火の粉が導火線に飛び散るのを防いでいる。箱の中身は数日かけて運んだ焼夷弾だ。
小次郎がロウソクに火を点けて、カンテラの蓋を閉める。
ロウソクが一時間に三センチメートルの速度で燃えることは確認している。二時間後に、この丘の中腹で盛大な山火事が起きることになる。
「ここは、これでいい。さあ舟に戻ろう」小次郎が言った。




