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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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破門状 (はもんじょう)

 ヴァスコ・ダ・ガマ達がインドを目指して悪戦苦闘あくせんくとうしているとき、フィレンツェでも動きがあった。


 サヴォナローラが一四九七年のカーニバルで、時の教皇を批判した。聖職者なのに、何人もの私生児しせいじをもうけているのは恥ずべきことだ、といったあれだ。


 その件から十日程たった三月十三日、フィレンツェの書記が教皇に呼び出されていた。用件は、

「ピサをフィレンツェに渡すから、そのかわり神聖しんせい同盟に加盟しろ」というものだった。

 三年前にナポリ王を主張してフランスがイタリアに侵入した。フィレンツェはフランス軍の通過を許し、それ以降親フランス派の立場を取っていた。

 内陸のフィレンツェが海外貿易をするためには港が必要だったが、フランス軍の通過により、ピサが独立していた。

 フィレンツェにとっては魅力的な提案だったが、当時ピサにはヴェネツィアが臨時の海軍基地を置いていた。これを手放すとは思えない。

 フィレンツェが断る。

 このとき、教皇がどのようにフィレンツェの書記をののしったのか、その書記官がフィレンツェに送った報告書が残っている。


貴国フィレンツェがなぜそんなに頑固なのかはわかっている。あのぺてん師の説教を信じているからなのだ。もしわたしが貴国の人民にじかに話しができるなら、真の利益がどこにあるかを説き、あの坊主にあおられた自殺にひとしい政治を捨てさせてやる」


 教皇、アレクサンドル六世は『貴国』とまとめて言っているが、フィレンツェには、さまざまな人が住んでいた。

『僧侶派』はサヴォナローラ支持派だ。小市民、職人、信仰熱心な人などが支持した。『憤怒派』は反サヴォナローラだ。貴族層、旧メディチ派、エリート市民層が多く、乱暴を働くことが多かったので、この名がついた。他にもどちらにも属さない『中道派』、メディチ家復帰を望む『メディチ派』、その反対の『反メディチ派』などさまざまだった。

 要するに、サヴォナローラの強い影響はあるものの、全体としてはしだいに求心力を失いつつあり、分断が進んでいた。


 例えば、復活祭の四十日後には『昇天祭しょうてんさい』というお祭りがある。この年は五月四日だった。大聖堂でサヴォナローラが説教しているところに『憤怒派』が賽銭箱さいせんばこをひっくり返して暴れ、サヴォナローラが武装した信者に守られて退出する、という事件があった。

 ローマなどフィレンツェ外部の勢力は、これを知り、サヴォナローラ派の力が衰えたのだ、と判断する。


 ローマでは、五月の十二日か十三日に、教皇がサヴォナローラの破門状はもんじょうにサインをしている。

 後に教皇はこの破門状にサインしたのはミスだったと言っている。破門するか、しないか迷った上でのサインだったのか、それとも本当にミスでサインしたということもあるかもしれない。アレクサンドル六世は、ときどきそのようなことがあったという。


 この破門状はフィレンツェの修道院だけに送られることになった。教皇の代理として、これをフィレンツェに届ける役として、神学者のカメリーノという男が選ばれる。

かれは三月にフィレンツェを追放されたばかりの反サヴォナローラ派だった。

 破門状などという重大な書類は、通常全キリスト教会宛てに発行して周知すべきものだ。キリスト教世界全体からの村八分むらはちぶのようなものだからだ。しかし、このときはそうなっていない。


 フィレンツェの内閣にあたる十人委員会が、同市出身の枢機卿すうききょう経由で破門状が発行されたことを知る。委員会は逆に、破門状がフィレンツェに届く前に、サヴォナローラを擁護する書簡を教皇に発送した。二日後にサヴォナローラ自身も教皇に手紙を送っている。


 その手紙には、こう書かれていた。

「ですから教皇猊下げいかにおかれましては、相手が信頼できるかどうかお確かめなさらずに、悪意ある言葉をおれなさいませぬように」


 教皇への慎ましい恭順きょうじゅんの意をあらわしていて、悪意ある者の讒言ざんげんに耳を貸さぬよう懇願こんがんした。


 幸いにもこの手紙が教皇の心を晴らした。あの破門状は、準備はしていたものの、出すべきか否か迷っていた。それが、なにかの間違いで、署名・発行されたものだ、教皇がそう言い出した。もっともこれはまだ教皇庁の内輪うちわでのことで、枢機卿すうききょうなどを通じてうわさで伝わっただけだ。


 肝心かんじんの破門状はどこにいったのか。六月になってもフィレンツェに届かなかった。昇天祭事件を受けて、外部からは反サヴォナローラ派が優勢になったと見られていたフィレンツェだった。しかし、実際には依然としてサヴォナローラ派がまだ優勢だった。それを知った神学者カメリーノは、途中のシエナで日和見ひよりみを決め込んでいた。


 六月十四日。

 ローマで教皇の息子の一人、次男のガンディア公フアン・ボルジアが行方不明になる。二日後スラブ系の材木商ジョルジュという男が現れる。失踪した日の夜ジョルジュはテヴェレ川の岸にある倉庫の番をしていた。そして、その夜二人の男が川にやってきて、死体を投げ込んだと供述した。


「なぜ、その話をすぐに通報しなかったのか」と問われた材木商は、こう答えた。

「ローマに住み始めて、もう何年にもなる。あそこから死体を川に投げ込むのは、もう百回も見ている、でも誰かが騒ぎ立てるのは、今回が初めてだ」


 結局、この暗殺事件の犯人は捕まらずに終わってしまう。


 教皇アレクサンデル六世は、この事件を自身に対する神罰と受け取った。三日後の演説で、彼はこう述べた。


「神はわたしの罪を罰したかったのです。なぜならガンディア公自身には、こんなに恐ろしい目に遭わなければならない理由はないからです……あらゆる身内贔屓びいきを廃し、わたし自身を改革することからはじめ、徐々に教会内の他の人々に移してゆきましょう。こうすれば、教会は完全に浄化されるでしょう」


 教皇が、自身の治世を不浄だと認めたのだった。


 シエナで日和見を決めていた神学者カメリーノがフィレンツェ政庁に通行許可証を求める手紙を出した。政庁はこれを拒否した。

 やむを得ず、神学者は代理を立てて破門状を届けさせた。手続き的に不備のあるやりかただった。

 フィレンツェの多くの教会は破門状の受取を拒否するが、反サヴォナローラの五つの教会は、これを受け取った。そして、鐘楼に松明たいまつともし、盛大に鐘を鳴らし、サヴォナローラの破門を喧伝けんでんした。六月十八日だった。


 イタリア半島の国々は、以下の三つの知らせをほぼ同時に受け取ることになった。

・サヴォナローラの破門

・ガンディア公の暗殺

・いままでの統治は不浄であった、と認める教皇の手紙


 で、サヴォナローラの破門はどうなるのか、いままでは不浄であったというのならば、無効なのか。


 サヴォナローラの破門状がちゅうに浮いた。


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ぐだぐだな時代過ぎる……
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