伝書鳩 (でんしょばと)
「なあ、父さん。本当にユダヤ商人にカネを預けるのか。大丈夫なのか」十五歳のエドワード・オズボーンが言った。
二人は『レヴァント会社』が所有する帆船『ハリー・ボナベンチャー号』の船尾楼にいた。目の前にアルノ川の河口が広がっている。
「ああ、大丈夫だろう。このようなことではユダヤ人は信用がある」
「なぜ、信用があるんだ」
「さてな、酔いつぶれるまで大酒を飲んだりしないからではないかな。今は金貸しといったらイタリア人が多いが、昔は金貸といったらユダヤ人だった。王様だってユダヤ人から金を借りていたんだ」父親のリチャード・オズボーンが言った。この船の船長だ。
「本当なのか」
「ああ、そうだとも。それにローマ銀行は、ヤコブの店に間借りしているだけで、実際の運営はカタダ商店だ」
レヴァント会社とは、ヘンリー七世が東地中海と交易するために勅許状を出した貿易会社だ。史実上はエリザベス一世が一五九二年に勅許状を出しているので、百年程早く登場してもらっている。
この会社が設立されたきっかけは、ヘンリー七世がジョン・ダイナム大蔵卿の進言で始めた明礬貿易だった。
明礬は羊毛に染料を浸み込ませるときに媒染材として使用する。色の着きが良くなるのだ。
もともとキリスト教徒は、イスラム教徒からアフリカ中部、チャド産の明礬を購入していた。ところが、ある時トスカナ地方の教皇領で明礬鉱山が発見される。ローマ教皇はイスラム教徒からの明礬購入を禁止して、キリスト教圏での明礬の独占販売を始めた。
キリスト教圏において売買する明礬袋にはローマ教皇の封蝋が付けられた物に限り、封蝋のない明礬を販売した者には罰則が設けられる。
そんな時に、フィレンツェの商人ジェローム・フレスコバルディという男がジョン・ダイナムを通じてイスラム教圏の安い明礬を紹介してもいい、と申し出てきた。
イングランドは羊毛の産地だ。原毛を輸出するだけでなく、国内で染色すれば付加価値が出て、より高く売れる。
イスラム圏から安い明礬を手に入れて、官営工場のなかで染色してしまえばいい。明礬を販売するわけではないのだから、教皇の布告に触れることもない。
というわけだ。イングランドがコンスタンティノープルと直接取引するために、レヴァント会社が設立された。
今、二人の乗った船は、フィレンツェの港リヴォルノで舶載していた明礬の半数を下ろし、フィレンツェのフレスコバルディに販売してきたばかりだ。
教皇令に反しているが、しかたがない。サヴォナローラを担いでいるフィレンツェに対して教皇が明礬を販売しなかったからだ。毛織物が特産品のフィレンツェにとっては痛手になる。
売らねえんだったら、教皇令に従うこたぁねぇ。
ということで、リチャードが封蝋無しの明礬袋をフレスコバルディに売った。そして手にしたフローリン金貨をピサのユダヤ人に渡し、為替にしてもらおうというところだった。
小さな船外機付きの小舟でアルノ川を遡り、ヤコブの店に入る。
「やあ、ヤコブ。ひさしぶりだな。これが俺の息子のエドワードだ。よろしくたのむ」
「シャローム。エドワードか、よろしくな」
イングランドは一二九〇年にユダヤ人を追放している。エドワードはユダヤ人と初めて話した。
「よ、よろしくお願いします」
「今日は、なんの用事かの」ヤコブがリチャードに尋ねる。
「この金貨をロンドンのシティの口座に送って欲しい。三百フローリンだ」
「為替かの。では、あっちの窓口だ。日本人がおる。そいつに頼んでくれ」
ヤコブが奥の方を指さす。
その窓口には日本人の若い男と、その後ろに年配の男がいた。ヤコブとの話を聞いていたのだろう。最初から英語で話しかけてくる。
「送金ですか。手数料は一分になりますが」
「わかっている。三百フローリンをロンドンのシティ支店の口座に入れてくれ、口座名義は『レヴァント会社』で、口座番号はこれだ」そういって口座番号を書いた紙を見せる。
「承知しました。向こうでのお渡しは、ソブリンでよろしいですか」
「かまわん」
「では、少々お待ちください」そういって、書類の作成を始める。送金伝票を起こし、電信票を記入して、背後の上司に渡した。
上司がそれを見て、金貨の枚数に間違いがない事を確認すると、為替に受領印を押した。
若者が戻って来て受領印を押した為替をリチャードに渡した。
「本国に戻られた際には、この為替をローマ銀行のシティ支店にお持ちいただき、入金の確認をしてください。口座への入金は、明日の日付で行われます。明日以降はいつでも引き出しが可能になります。入金確認は念のためです」
それを聞いたエドワードが驚いたような顔をする。
為替を受け取って引き上げるリチャードにエドワードが尋ねる。
「明日には入金されるって、どいういうことだ」
「さてな、どうやっているのかは知らない。鳩を使っているんじゃないかという」
「鳩って、伝書鳩か」
「そうだ」
「そんなんで大丈夫なのか。三百フローリンもの大金だよ。いつも無事に届けられるのかな」
「それだから、この為替を渡すんだろう。万一鳩が到着しなかったときには、この為替で金を要求できる」
「なるほどなぁ」
一分というと一パーセントだ。テレタイプで電信を一本打つだけで、十万円程の手数料がローマ銀行に入ることになる。それでも途中、バルバリア海賊に襲われる危険を考慮すれば安い手数料だった。
エドワード・オズボーンは実在の人物です。武勇伝があります。
実際のエドワードは一五三〇年頃の生まれです。小説のエドワードより五十歳くらい若い人でした。
彼はロンドンの有力商人サー・ウィリアム・ヒューイットの商店に奉公に入りました。
雇い主のヒューイットはロンドン市長になったこともあり、ロンドン橋の上にあるアパートに住んでいました。あるとき乳母が、彼の幼い娘をアパートの窓から、テムズ川に誤って落としてしまいます。それを見たエドワードが川に飛び込み、娘を救ったというのです。
このことにヒューイットはいたく感謝し、救われた娘アン・ヒューイットが成長すると、エドワードと結婚させ、彼の事業をエドワードに譲ります。
その後はスペイン、トルコとの交易に従事し、『トルコ会社』の総裁になり、トルコ会社を引き継いだ『レヴァント会社』の設立にも関与します。
一介の奉公人から身を起こし、大実業家になり、ロンドン市長を務め、ナイトの称号を授与される立身出世の男でした