ローマ銀行
誤字を指摘してくださった方、ありがとうございます。
最近事前にChatGPTさんに誤字脱字修正をお願いしているので、以前より減っているとは思うのですが、まだまだですね。
アドリア海の東岸は、ダルマチア式海岸という多島海になっている。
幾つもの断層が平行の谷を作り、それらの谷が海没している。
海上に残った部分が数えきれない程の島になる。中には人が住んでいない島もたくさんあった。
それらの島の一つに、村上雅房の『加古』と二隻の輸送機帆船が息を潜めるように停泊している。
多島海の最北部で、イタリア人の航路からは外れている。
そして、到着したことを無線で知らせる。
誰に知らせるのか。アドリア海沿岸のユダヤ人商人達だった。彼らの元には、ジェルバ島で無線機とテレタイプの操作を習得した日本人達が送られている。
ヴェネツィア、トリエステ、アンコーナ、ラヴェンナ、リミニなどの港から中型帆船が出航する。『加古』達が停泊している湾まで、遠くても二百キロメートルくらいだったので、六日あれば往復できる距離だった。週に一度の安息日、カシュルートを守ることができる。
ユダヤ人商人が、指定された停泊地に集合し、『加古』達が運んできた東洋の産物を購入していく。
商人達は、アルプスを越えた北の国々に高く売却することが出来る。
支払いは金貨や銀貨だった。
ヴェネツィアのドゥカート金貨やグロッソ銀貨。フィレンツェのフローリン、フランスのエキュ、イングランドのソブリン、スペインのクルサードなど、ヨーロッパ中の金銀貨が集まってくる。
集めた金銀貨は、銀行を設立して、その『準備金』とした。本店はオルダニー島、支店はロンドンのシティ(City of London)とピサのヤコブ商店内に置いた。
まだ始めたばかりなので、準備金といっても大した額を備蓄しているわけではない。それでも名前だけは、『ローマ銀行』という名前にする。しかも、ラテン語で『Argentaria Romana』とした。堂々たるもんだ。
ローマといいながらも、本店はイギリス海峡の小島、オルダニー島にある。準備金が少ないので、当初の業務はテレタイプを使った電信為替だった。
電信為替というが、郵便局の為替ではない。互いの支店の口座から口座への資金の移動である。現代日本の『全国銀行データ通信システム』の機能に近い。
各国に銀行法など無かった時代なので、やったもん勝ちである。
利用者はイングランド人やユダヤ人の商人だった。遠隔地の代理人が行った取引の送金に使う。
最近イングランド人が地中海交易にのりだしている。オルダニーで片田商店から東洋の交易品を仕入れて、地中海各地で売却した。
すでに為替の仕組みは当時のヨーロッパにもあった。しかし為替の運搬に船や馬を使わなければならず、時間がかかる。それに道中の危険もあった。
片田商店の電信為替ならば当日中に資金移動が行われ、道中の危険はまったくなかった。
また、支店といったが、それは理解しやすいようにそう言ったまでで、法人としては独立している。
これは重要な事だった。
片田達の時代から一五〇年程前、フィレンツェに『バルディ社(Compagnia dei Bardi)』という銀行があった。ローマ教会の徴税請負もおこなっていた同社は、ロンドンからコンスタンティノープルまで十三の支店を持っていた。この支店と本店は連帯責任になっていたようだ。つまり、フィレンツェの本店の信用で支店が営業していたことになる。
バルディ・イングランド支店はイングランドのエドワード三世に九十万フローリンを融資した。一フローリンは金三.五グラムだ。
おそらくフィレンツェがイングランドの羊毛を必要としていたのだろう。
エドワード三世は、その借金でフランスと百年戦争を始める。一三三八年のことだ。エドワードはフランドルの混乱に乗じて、その地に上陸する。
これに対してフランスのフィリップ六世は正面から衝突することを避けた。持久戦になりエドワードの軍資金が尽きる。このため一時帰国して議会に臨時課税を承認させたりしている。
エドワードが再上陸し、決戦を挑むが、これに敗れ、時限的な休戦協定を結ぶことになる。
つまり長期戦になったということだ。まさか、これが百年続くことになろうとは、思っていないだろうが。
そうしているうちに一三四五年にバルディ社からの借金の期限が来てしまう。エドワードは返済できなかった。一部現物の羊毛で支払うのが精いっぱいだった。
そして、バルディ社のイングランド支店も、他の投資家から金を借りてエドワードに融資しているので、その返済に失敗する。連帯責任でフィレンツェの本店まで破産してしまう、ということになった。
フィレンツェの投資家たちもずいぶん痛手を負った。
エドワード三世はイングランドの元祖ソブリン・リスク(国家信用リスク)のような王様だ。
『バルディ』の名はアルノ川南岸の「デ・バルディ通り」に残っている。ここにバルディ家の邸があるからだ。
この道はヴェッキオ橋南側の交差点から、アルノ川と並行に東に延びている。しばらく行ったところ、デ・バルディ通り三十番地(Via de' Bardi, 30)にバルディ邸が今でもある。
ダンテの『神曲』に登場するベアトリーチェのモデル、ベアトリーチェ・ポルティナーリは、バルディ家のシモーヌ・ド・バルディと結婚している。両家とも銀行家だった。
二人の結婚は一二八〇年頃のことだと考えられている。二人もこの邸に住んだのだろう。
片田達の時代には、ベルッツィが没落した後に勃興したメディチ家が、同じような立場になる。
メディチ家は、やはりローマ教会の徴税請負を行い、支店を展開する。しかしメディチの場合、支店は半ば独立させていたようだ。
メディチが融資した戦争は、イングランドの内戦、薔薇戦争だった。ヨークにもランカスターにも融資していたという。どっちか一方が貸し倒れになることくらいわかりそうなもんだが。
そしてメディチのロンドン支店は薔薇戦争終結とともに閉店してしまう。
リチャード三世は死んでしまったので仕方ないが、ヘンリー七世は第二代踏み倒し王になる。
ランカスター朝を継承せず、チューダー朝を建てたわけだ。
このようなことになる背景には、当時銃や砲、火薬などが普及してきて、それまでに比べて格段に戦争の費用が高価になってきた、という理由がある。
しかし、メディチ銀行は、経営悪化で縮小傾向をたどったが、その後一四九四年まで存続している。メディチ銀行が破綻したのは、フランス軍がフィレンツェの開城を行い、ピエロ・デ・メディチが追放された時だ。
なので、連帯責任によるサドン・デスを防ぐ対策がなされていたと推測されるのである。
片田もメディチの真似をして、二つの支店をそれぞれ独立したものとして開店した。
ベルッツィもメディチも、いざ国家が債務不履行に陥ったときに、強制的に債権なり担保を回収する手段を持っていなかった。
『ローマ銀行』が将来、国家に対して融資を行うほどになるかどうか、今の所わからない。けれども、『ローマ銀行』には、片田の海軍があった。
「ヴェネツィアに行っても、いいのかい」サイラスが村上雅房に言った。
「ああ、いいぞ。ちょっと調べて欲しいことがある」
「何を調べてくればいいのかな」二つ年上のベンヤミンが尋ねる。
「うん、土地鑑をつけてきてほしい」
「トチカンってなんだ」
「いや、むこうにどんな通りや広場がある。とか、生活習慣といったようなものだ。俺達日本人が行くと、怪しまれるからな、代わりに見て来てほしい」
「なんか、遊びに行くようなもんだね」サイラスが笑う。
「まあ、そんなところだ」
ヴェネツィアにゲットーが出来るのは一五一六年のことだ。この時には、ヴェネツィアのユダヤ人はまだ、比較的自由に行動できた。
修正いたしました。
誤「テレタイプ操作を習得したユダヤ人達が送られている」
正「テレタイプ操作を習得した日本人達が送られている」
 




