とるに足らぬ物
一四九七年十二月八日。
地元の住民が、彼等の立てたパドランと十字架を倒すところを目の当たりにした翌日だった。風が立ち、ガマの艦隊が『真水の泉の湾』を出港した。
四日後、激しい嵐が艦隊を襲った。艦隊は座礁しないように、陸から離れる方向に進む。
帆は全て畳まれ、船尾からシー・アンカーが降ろされた。圧倒的な『うねり』に翻弄されながら三隻の帆船が上下する。水夫たちが交代で排水ポンプを動かすが、浸水速度の方が優った。船倉はすでに水浸しになっている。
小さなカラヴェル船のペリエ号の姿が見えなくなった。残った二隻がペリエ号の心配をする。
長い一日が過ぎる。夕方近くになって嵐が収まってきた。波が低くなり、数キロメートル先に小さくペリエ号の姿が見えた。
このあたりの海をインド洋に向けて航海するのは難しい。風も海流も進行方向とは反対側であることが多いからだ。
ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊も、前進したり、喜望峰の側に引き戻されたり、苦労して進む。十二月十六日には、バルトロメウ・ディアスの到達点、インファンテ川にたどり着くが、十二月二十日には、大きく西に引き戻される。
再度インファンテ川を越えたのは十二月二十五日だった。
旗艦サン・ガブリエル号の上甲板後部。艦長室のテーブルに海図が置かれていた。その海図にはアフリカ大陸の西海岸は描かれていたが、これから向かう東海岸の部分は白いままだ。
ヴァスコ・ダ・ガマ、艦長のゴンサロ・アルヴァレス、水先案内人のペロ・デ・アレンケルの三人が、その半分白い海図を見下ろしている。
「ここから先のことは、私も未経験なのでわかりません」ペロが言った。
「それは、わかっている」と、ヴァスコ。
「ただ、この先のどこかに、ソファラという港があり、そこがイスラム商人達の南限だということです」
「なるほどな」ゴンサロがうなずく。
「ソファラの次の港は、どこだ」ヴァスコが尋ねる。
「その次は、モザンビークという港です。新しい港で、湾内にある島に置かれています」
「おおきな島なのか」
「いえ、非常に小さな島です。新しい港で、真水も出ないところですので、住んでいても百人とかそんなものでしょう。水は本土から運んでくるそうです」
ペロ・デ・アレンケルは、何年か前に陸路から探検したパロ・デ・コヴィリアンの情報を知らされているらしい。
「そちらの方が安全そうだな」慎重なヴァスコが言う。
「では、次に向かうのはモザンビークということですか」艦長が言った。
「そうしよう」三人が合意した。
イスラムの商人達はソファラまでしか到達していない。ソファラは、内地のジンバブエで産出する金の積出港として栄えた。
ソファラより南は、ヴァスコ達が経験したように、航海が困難であった。
そして、困難なわりには、よい交易港も産物もなかった。
それに、仮にアフリカの向こう側に出た所で、大西洋側に彼らの欲しがるようなものがあると思わなかったのだろう。仮にヨーロッパとの間の航路があったとしても、ヨーロッパにイスラム商人が欲しがるものがない。そこで産出するのは、毛織物と銀、木材程度だった。
アフリカ西部、トンブクトゥの金は、喜望峰を回らなくとも、サハラ砂漠をキャラバンで越えて、アフリカ北岸沿いに持って来ればいい。
モザンビークは最近、中継港として、建設されたという。イブン・バットゥータの旅行記には登場しないので、建設されてから長くても百五十年くらいしか経ていないと思われる。
翌年の一月十日、彼等は現在のロレンソ・マルケス湾にそそぐ河口に到着した。このあたりまで来ると、高い木々が茂っていて、水も豊富にある。インド洋から吹く湿った北東風と沿岸を南下する暖流の恵みだ。
現在のモザンビーク国南部、マプートという都市があるあたりになる。南緯二十五度付近だ。地図で言えば、マダガスカル島の南端と同緯度である。
ポルトガル人は、ここでは成功する。通訳のマルティン・アフォンソともう一人の男が海岸に上陸すると、たくさんの背の高い黒人男女に歓迎された。
さらにヴァスコ達も上陸する。傷は治っていた。ヴァスコが長と思われる男に上着やズボン、帽子、ブレスレットなどを贈る。彼はこれをたいそう喜んだ。
そして、必要な物はなんでも提供しよう、と身振りで言った。
長は贈られた服をきて、それを見せびらかしながら、マルティンと男を従え、彼等の村まで凱旋した。
マルティンは彼らの村で一泊した。
ここでは家は藁で作られていた。鉄製の刃物を持っていて槍などにしている。銅が豊富なのか、装飾品として足輪や腕輪、髪飾りなどにしていた。
彼等は五日間滞在し、水や食料を補給した。
イスラム商人の金の積出港であるソファラは、ヴァスコの方針で、寄港しなかった。そして、その先のリオ・ドス・ボンス・シナイスという河口にある小さな港に入る。
ここは、すでにイスラム圏だった。入港して、前の村と同じような贈り物を与えたが、この村では喜ばれなかった。
ここでは、ポルトガル人の贈り物は、『とるに足らぬ物』として扱われた。
当時の航海記録には、「彼らは非常に傲慢で、私たちが与えたものを何一つ大切にしない」と書かれている。




