聖ブラシウスの水場
十一月十六日の夜明け。
ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊がサンタ・エレナ湾を出港して、喜望峰に向けて南下する。
二日後、彼等の前に、一つの岬が現れる。
「どうだ」ヴァスコが尋ねる。
「喜望峰です。岬の左手に小さな台地が見えるし、先端が細く海に延びています。まちがいありません」十年前のバルトロメウ・ディアスの航海に同行したペロ・デ・アレンケルが言った。十年前に見た岬が、夕陽に赤く輝いていた。
喜望峰までたどり着いたが、そこから先が難しかった。この地域では南風が吹くことが多い。南下しようとする彼等は、何度も南に船首を向けるが、そのたびに岸に吹き戻された。
十一月二十二日、やっと北西に回った風を捕まえることが出来る。旗艦サン・ガブリエル号のラッパ手がファンファーレを奏でる。
十一月二十五日、彼等は大きな湾を見つける。アザラシやオットセイが無数に横たわる小島の側を通って上陸してみると、淡水の泉を見つけた。
ペロ・デ・アレンケルに、この湾を知っているかとガマが尋ねると、知らないと答えたので、湾の名前を『アグアダ・サン・ブラース』とした。この日は聖ブラシウスの祭日だったので、『聖ブラシウスの水場』という意味だった。
人は見当たらなかったが、数多くの肥った牛が海岸で草を食んでいた。鼻に棒が刺してあるので、家畜だろうと想像される。
ヴァスコは、ここで食料輸送船を放棄することにした。食料を輸送船から他の三隻に積み替える。
作業中、ここでも黒煙を出しながら航走する船を沖に見た。
十二月一日、積み替えは終わっている。数十人の現地人が丘の向こうからやってきた。放牧していた牛を回収しにきたのかもしれない。
ポルトガル人達が武装して、ボートで海岸に上陸する。ガマの負傷は治っていない。注意が必要だった。
ヴァスコの兄、パウロが砂浜に鈴を投げ、現地人がそれを拾った。手真似でアフリカ人の一人に近寄ってくるように言う。彼が寄ってきた。
パウロが鈴と、赤い帽子を渡すと、彼がパウロに象牙のブレスレットを渡した。チロチロと鳴る鈴が気に入ったらしい。
翌日は二百人の現地人がやってきた。牡牛や牝牛、ヒツジなどを連れている。ポルトガル人が上陸すると、笛や太鼓などで演奏を始め、踊り出した。
パウロが、艦隊のラッパ手やヴァイオリン手に演奏を命じる。パウロは、弟のヴァスコよりも愛想の良い男だった。ケガをしている弟の代わりに代表者役をやっている。
パウロが交渉するとヴェネチアの色ガラスを繋いだブレスレット三つと、黒牛一頭を交換してくれた。水夫たちが大喜びする。明日の昼飯はロースト・ビーフだ。
ロースト・ビーフが両者の緊張を和らげたのだろうか。翌日以降両者が浜辺で陽気に交際した。
地元の男が狐の尻尾を付けた棒でポルトガル人をからかう。お互いに楽器を鳴らして踊りあう。
しかし、彼らが舞い踊る砂浜の向こうには、武装した地元の若者たちが控えていた。ポルトガル人はアフリカ人を無策、無邪気な人々と考えていたが、実際はそうでもなかった。
外来者と友好的に付き合うのはかまわないが、何時なんどき事態が急変するかわからない、地元民はそれを知っていた。
なので、万一の場合に備えて、いつでも攻撃し、相手を圧倒する準備をしている。うまくいっている間はなにもしない。
出航が近づいてきた。水の補給をおこなわなければならない。
翌日パウロが『淡水の泉』に水を補給しにいくように命じる。同時に通訳のマルティン・アフォンソにもう一頭牛を購入するように命じた。
ブレスレット三つで牛一頭ならば、破格の値段だった。
「牛をもう一頭売って欲しい。支払いはこのブレスレット三つだ」マルティンがニコニコと笑いながら、地元の牛飼いに身振りで言う。
「ああ、牛を売るのは、かまわんが、あれを見てみろ」牛飼いが指さす。
「なんだ」マルティンが指さす方を見てみると、『淡水の泉』だった。ポルトガルの水夫たちが樽に水を汲んでいる。
「あれの何が問題なんだ」マルティンが問う。
「ここでは、水は貴重なんだ。あの泉の水をたくさん汲むと、水位が下がる」
「しかし、我々は出航しなければならない。海の上では真水が必要なのは、わかるだろう」
「それは、わかる。だから、少しだったらいい。しかし、あのように多数の樽に水を汲まれてはかなわない。牛や羊達だって水は必要だ」
マルティンが事の重大さに気付き、笑顔が引いていった。ロースト・ビーフどころではない。
「このブレスレットは、やる。牛はいい」そういって、パウロの所に帰って行った。
「そういうことか。困ったな。我々には、ぜひとも水が必要だ」パウロが言った。
「彼らを害することないように、威嚇して、その間に給水を済ませよう」弟のヴァスコが言う。
「そうするしかないか。せっかくやつらと楽しくやってきたのに、残念だ」
「やむをえまい。水は必要だ」
三艦が地元民に当たらないように注意しながら、海岸に向かってボンバルダ砲を発砲する。砂浜や波打ち際に着弾する。
それを見た地元民たちが逃げてゆく。藪に待機していた若者たちもだ。
槍やハンドガンを持った兵達が砂浜に上陸し、水汲み役の水夫を護衛する。地元民が近づいて来ようとすると、当たらないようにハンドガンをぶっぱなす。
十二月六日。水は汲み終わった。
最後に砂浜にパドランという塔と、食料輸送船の後檣から作った十字架を立てた。
翌朝、艦隊が出航する。出航したとたんに凪になった。湾内でヴァスコ達が見ていると、藪のなかから地元民が出て来て、パドランと十字架を倒してしまった。




