元旦 (がんたん)
明応五年(一四九六年)十一月二十八日の深夜だった。
堺の無線操作員が時計を眺めて、副無線機の周波数を生駒山天文台の周波数に合わせる。
「こちら堺無線送受信所。生駒山、応答できますか」若い娘の声だ。
「おう、こちら天文台。聞こえているぞ」
「こちらの時計、もうすぐ深夜十二時になりますが、そちらの観測はどうですか」
「こちらも、もうすぐだ」
天文台の男は、子午環という観測装置を覗き込んでいる。
正確に水平東西方向に置かれた軸の周りを回転する望遠鏡で、夜空の天体が子午線という南北を結ぶ線を東から西に通過する時刻や高度を測定する装置だ。
あらかじめ、真夜中の〇時ちょうどに子午線を通過するはずの星を決めて置き、その通過を待っている。
接眼鏡を覗くと、視界に上下に細く黒い線が見える。その線を恒星が通過した。
「いまだ。堺」
「承知しました。こちらの時計も十二時になっています」そう言いながら、無線操作員が正無線機の方に向き、撥で鉄琴を打つ。
「ド、ミ、ソ、ド」と鉄琴が鳴る。
「全世界の片田商店のみなさん。ただいま時計が西暦一四九七年一月一日、午前零時を打ちました。みなさま、新年あけまして、おめでとうございます」
片田商店は、イングランドと接触することにより、ユリウス暦を手に入れた。そして、内部の航海暦として西暦を使用していた。
ユリウス暦は、古代ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が紀元前四十五年に定めた暦で、一年を三六五.二五日と定めた暦である。
人間が暦を使うようになったのは、おそらく農業に関係がある。いつ種を撒いたらもっとも収穫量が多くなるか。それを知るために暦が発明されたのだろう。さらに社会が複雑になると、契約期日など日数を数える必要が生まれた。
はじめの暦は、月をもとにした太陰暦だ。月は二九.五三日で地球のまわりを周回し、新月から三日月、半月、満月と、その見た目を変える。
空に自動カレンダーがあるようなものだった。
小数点一位に五があるので、二十九日の月(小の月)と三十日の月(大の月)にわけるとちょうどいい。それを六回繰り返して一年を三五四日とする。
太陽暦より十一日短いので三年に一度程度、閏月を入れて季節のずれと調整した。
これとは別に、太陽の動きを使った暦が古代エジプトで発明される。
冬至から次の年の冬至までの間を一年とするのが太陽暦だ。地球は太陽の周りを三六五.二四二一八一……で周回する。
この数字を下のように分解する。
三六五 + 〇.二五 ― 〇.〇一 + 〇.〇〇二一八……
≒ 〇.〇〇二五 = 一/四百
先頭の二つの項だけを採用すれば、一年は三六五日であり、余った〇.二五を調整するために四年に一度、西暦年が四で割り切れる年は、閏日を二月に追加する。
これがユリウス暦の仕組みだ。これによると、季節と暦が一日ズレるのは約百三十年後だ。
さらに、次の項が 〇.〇一なので、年が四で割り切れても、百でも同時に割り切れる年は、閏日としない。さらに四百年に一度……、などとしたのが現在使っているグレゴリオ暦で、現在の暦になる。これが定められたのは一五八二年だ。
世界標準時とか協定世界時なんてものは無い時代だ。片田商店の時刻は堺を中心にしている。
堺の和暦明応五年十一月二十八日午後十二時は、イングランドのオルダニー島では、一四九六年十二月三一日の午後三時だ。皆で無線送受信機のスピーカーを囲んでいる。
堺の無線操作員の声が聞こえる。
「……みなさま、新年あけまして、おめでとうございます」
「オッめでトゥ」
「新年だぁ」
「はっぴぃ、ぬーいやぁー」
男達が、口々に、無線機のマイクロフォンに向かって叫ぶ。通信員以外の男達は何カ月も祖国の若い娘と話していない。それに、すでに酒が入っている。
堺の無線操作員の娘が耐えかねて、ヘッドセットを外した。
ひとしきり喚いたら、酒盛りに戻る。『磯部焼』の餅に小皿の醤油を付けて、酒の肴にしている。魚の缶詰をつつく者がいる。
午後五時、シンガプラの通信所が新年の挨拶を送って来る。再びオルダニー島が叫び倒す。現代のシンガポールの時刻帯は、位置する経度より少し早い。
午後七時、インドのコーチ通信所から新年の賀が届く。オルダニーの勢いが少し弱まった。
午後九時、マダガスカルからの通信に答えるオルダニーは数人になっていた。
まるで、片田が現代の一九六七年に見た『OUR WORLD』みたいである。『OUR WORLD』が放送されるのは四百七十年後だ。
そして、午後十一時、喜望峰通信所からの祝賀にオルダニー島は答えなかった。皆酔いつぶれている。
「あいつら、なにやってんだ。当番の通信員も寝ちまったのか」喜望峰がつぶやく。当番の通信員の名誉のために言っておくと、彼はトイレに行っている最中だった。
このようにして、西暦一四九七年が明けた。この年にインド洋と東南アジアの繁栄が翳り始める。
史実では西洋が、初めはおずおずと、やがて暴力的に、この地域を支配する五百年の始まりだった。