日英同盟 (にちえい どうめい)
「ここに、両締約国はいずれも、その利益を擁護するため、必要欠くべからざる措置を執り得べきことを承認す」
安宅丸が『日英同盟』の日本語条約文を読み上げた。ここはグリニッジ宮殿の広間である。
上座に置かれたテーブルに、日本側は片田順と安宅丸、イングランド側はヘンリー七世とジョン・ダイナム大蔵卿が列席している。
ジョン・ダイナムが同盟協約の英文を読み上げ、そのあとに安宅丸が日本文を読み終えたところだ。
片田とヘンリー七世が、英文と日本文を並記した協約書に署名して交換する。
「協約は成立した」二人がそれぞれの言葉で宣言する。
この日英同盟の趣旨を簡単に言うと、以下のようになる。
・もし日本かイギリスのどちらかが戦争になったら、他方は中立を保つ。
・もし敵が増えて複数の国と闘うようになったら、お互いに助け合って一緒に戦う。
・この条約は五年間有効で、特に止めると言わなければ自動延長される。
である。西暦一九〇二年(明治三十五年)の日英同盟における核心、『日本とイギリスは、中国と朝鮮が他国から侵略されないように守る』という部分が抜けたものとなっている。
明治の日英同盟は、ロシアの南進から清と韓国を守りたい、という目的を持っていた。日英共に二国に権益を持っていたからだ。
ここで権益とは、市場、あるいは投下資本といってもいい。市場つまり日英が製造した製品の販売先としての中国・韓国を守る。
次に工場や鉱山、鉄道など日英が現地に投下した資本を守る。という意味である。
ここに、いままで朝鮮と呼んでいた朝鮮半島の国家を韓国と呼んでいるのは、同国が一八九七年に『大韓帝国』と名称を変更しているからだ。
李氏朝鮮は、日清戦争の結果として清の柵封体制から離脱した。自主独立国家となったことを内外に示すため、朝鮮王が皇帝に即位し、あわせて国号を改称した。
同じ日清戦争で、日本は台湾を獲得している。日本が近代的ルールに従って行った戦争で初めて獲得した領土だろう。
台湾の場合には、最初からこれを日本の一部とした。これにより日本の最高峰は富士山(三七七五.五六メートル)から新高山(三九五二メートル)になる。現在の台湾の玉山のことで、『ニイタカヤマノボレ』の新高山である。
日本は、高麗、朝鮮と長い歴史の王朝を持つ国を尊重したのだろう。清から独立させた後、台湾とは異なり、これを独立国とした。
しかし、大韓帝国が近代化に失敗し、さらに反日的政策をとるようになる。『ハーグ密使(特使)事件』が発生し、日本はこれを放置できず、一九一〇年の日本による『韓国併合』が行われる。
これにより大韓帝国は国家としては消滅した。
一四九六年に日本から持ち掛けたこの同盟をイングランドが受け入れた理由はフランスとスペインの存在だった。
両国がイングランドにとっての脅威であった。特にフランスが危険だった。史実においては、フランス、スペイン、共にこの時期に関心があったのはイタリアだった。イタリアはインド東洋への窓口で、豊かだったからだ。
それに比べイングランドは、せいぜい羊毛を産出するだけの貧しい国だった。わざわざ攻めていく理由はない。
ところがこの物語では、日本がイングランドと友好通商条約を結んでいる。インド、アジア、そして片田商店の商品がイングランド経由で大量に大陸に持ち込まれることになった。
つまり、イングランドもイタリアと同様に魅力的な国家になったということだ。
ヘンリー七世の危機感は史実よりも、はるかに大きなものになる。
一方の日本にとっては、イングランドはヨーロッパに対する橋頭保だった。『足がかり』といったほうが解りやすいかもしれない。
艦船は水や食料の補給や船員の休養のために港が必要であったし、修理のための船渠も必要だ。
ヨーロッパ大陸の近くに味方の港がなければ、活動が極端に制約されてしまう。もし、グレート・ブリテン島とアイルランド島、その周辺島嶼に寄港できないとなると、非常に困ることになる。
アゾレス諸島とマデイラ諸島はポルトガル領であり、カナリア諸島はスペイン領だった。アフリカの大西洋沿岸は海まで砂漠が広がっていて港の適地がない。セネガル川まで南下すれば、緑地はあるが、これではカーボベルデと同緯度である。
それ以外には、はるか北のフェロー諸島かアイスランドを寄港地にするしかない。フェローとアイスランドはデンマーク・ノルウェー連合王国が所有していた。なので日本側も、ぜひともイングランドが必要であった。
調印式が終わり、そのあとは条約締結を祝う宴が開かれた。
広間の隣に、同じ広さの宴会場が設けられた。南側の壁はガラス張りで、外の白いテラスが良く見える。
天井には二つのシャンデリアが吊り下げられ、それには無数のクリスタルガラスが飾られている。この部屋の内装は、最近改められ、クリスタル・ルームと呼ばれていた。
シャンデリアのクリスタルはアイルランドのウォーターフォードで作られたものだった。イギリスの新しい産業のショー・ルームでもある。
テーブルに並べられた皿、ワイングラス、ボウルなどはすべてクリスタル製だ。驚いたことに銀製のフォークまであった。ついこのあいだまで手づかみで食べていたことを考えると、ずいぶんと文化的になったものだ。
食が進み、酒が回って来る。出席者が宴会場の隅に設けられたクリスタルの即売所をのぞきに行く。
ガラス職人の保谷、切子の加賀久、それに初めて見るイングランド人の三人が売り子になっている。彼はウォーターフォードのクリスタル工場から来ているらしい。
「そこの高貴なお方、クリスタルの皿はいかがだね」加賀久が酔っぱらったイングランド人貴族に話しかける。
「旦那、このクリスタルの皿を見てくだせぇよ。ガラスは銀食器よりも料理が冷めにくい。それに透明なので汚れがよくみえる。なのでキレイに洗うことができて、清潔だ」
「なるほど」
「どうですかい、ワイングラスとデカンタもあるよ。ガラスのデカンタなら、澱が良く見えるでしょう」加賀九が赤ワインの入ったデカンタを持ち上げて見せる。
「じゃあ、皿とグラスを八つずつ、デカンタを一つくれ。わしはポイニングスだ」
「わかりやしたぁ、ありがとうございます。アイルランド総督さんの、ポイニングさんですね。後で配達させます」
となりで保谷が、何かのガラス製品を口に咥えている。彼が息を吸ったり吐いたりすると、ポッペンという音がする。
「こりゃ、なんじゃ」赤ら顔のイングランド人が尋ねる。
「こりゃあ、ポッペンというもんでさ。この底の所が薄くなっているので、息を出し入れすると音がするんです。おもしろいでしょう」
「不思議なもんじゃ。甥っ子に買ってやるか」トーマス・ラヴェルという男が言った。ヘンリー七世の財務官だ。
「甥っ子さん、おいくつですか」
「今年、五歳だ」
「あっ、そりゃあいけねえや。これは底のガラスが薄いんですよ。小さいと割れたガラスでケガをする。おみやげにするんなら、奥様にいかがですか」
「よかろう、では家内に買っていくことにしよう」
「手鏡なんかも、ありますよ」
ずいぶんと繁盛している。けっこうなことだ。