覚慶(かくけい)
初夏、田は見渡す限り、乾いた土色だった。覚慶は奈良盆地の北、法華寺に設けられた施餓鬼所にいる。
この位置は、奈良盆地でも高所であり、片田の揚水機でもここまで水を揚げることはできない。周囲にある古墳の濠は干上がっている。
広範囲な飢饉で、京都に流民が流れ込んでいた。京に行けばなんとかなるだろう、と考えた者たちが京都に向かったのである。彼らは京で、河内、大和は被害が少ないと聞き、さらに河内や大和に向かった。
京から大和に来る流民対策として、興福寺は、大和の北、京都からの入口にある法華寺、海龍王寺に施餓鬼所を設け、これを収容した。
両寺の境内、庭園のそこかしこに応急の長屋台が作られている。長屋台は壁が無く、雨がしのげるだけのものだった。毎日、一夜あければ、死人が出る。暑くなって死臭が強くなってきていた。覚慶は屋台を回り、死んだ者に経を詠み、運び出させていた。同じように飢えて、ここにたどり着いても、助かる者、助からぬ者がいる。
覚慶のところに、赤子を背負った女が寄ってくる。
「覚慶様、おかげで命拾いしました」
「おお、桔梗さん、じゃったかな。よかったのぉ」
「なにか、手伝えること、ありますか」
「大丈夫なのか」
「まだ、少しふらつきますが、簡単なことであればできます」
「そうか、では、宿坊の裏に厨房がある、そこに行って手伝いたいと言えば、炊き出しかなにか仕事があるじゃろう」
覚慶はそう言って付け足した。
「無理するのではないぞ」
覚慶は数日、桔梗の様子を見ていた。桔梗は粥を煮たり、それを避難者に食べさせたりしていた。
ある日、覚慶が桔梗を呼び寄せる。
「桔梗さん、お前はここにいてはいかん」
「え、なんでですか」
「ここから、南に五里(二十キロメートル)ほど行ったところに、とびという村がある。東の山際じゃ。とびの慈観寺に好胤という私の知り合いがいる。好胤を頼っていけ」
「どういうことですか」
「それはいえない。ここに好胤への紹介状と、通行証の代わりになるものがある。これをやるので、朝の食事が終わったら、とびに向かえ。いまのお前の足でも、今日のうちに着くであろう」
桔梗は事情がのみこめなかったが、命の恩人だと思っている覚慶が言うのであるから、と従うことにした。
桔梗が、覚慶から渡された握り飯を持って、とびの村に向かっていく。覚慶はその姿を見送った。覚慶は寺に戻る。寺のそこかしこに命拾いした者がいた。彼らは一様に希望を失い、無気力になっていた。
茜丸という名の若い薬師が、また一人の患者を看取った。彼の目に涙がにじむ。
怒りが湧く。薬もない、食べ物もない。これでどうやって救えというのだ。
彼は、今息を引き取ったばかりの子供の手を掴んだまま、突っ伏し、むせび泣いた。
あの若者も、もう限界だろう。覚慶は思った。覚慶が茜丸の肩に手をあて、呼び寄せる。
「話がある」
「できません」茜丸が言う。
「できなくても、そうするのだ」
「多くの患者を見捨てろ、というのですか」
「そうだ、どうせ、みんな死ぬ。お前が居ても、薬も何もないのでは役に立たない」
「どうせ死ぬ、って、それでも僧侶ですか」
「なんとでも言え。しかしもう一度言う。お前はここにいても役に立たぬ。お前が役に立つところに行け、といっておるのじゃ」
「いいえ、いいえ、出来ません」
「今の田の様子では、今年の秋も米が取れぬ。飢饉はどんなに早くとも来年の春、麦が出来るまでは止まらぬ」
「そんな先のことはどうでもいいのです」
「興福寺がそれまで食料を提供できると思うか」
「それは、そんなことまで考えたことはありません」
「興福寺が食料を提供できるのは、せいぜい秋までじゃ」
「それでは、その先はどうなりますか」
「さきほど言ったであろう。みんな死ぬ」
「そんな」
「だから言うのじゃ、お前は生きて、その技で人を救え」
覚慶は、茜丸をとびの村に向けて送り出した。
「覚悟はしていたが、思ったより、これは、堪える」覚慶は一人思った。
しばらく前のこと、片田が覚慶にこの仕事を依頼してきた。
「で、お前の村で、どれほどの人が救えるのだ」
「今、蓄えている食料で、二万人を一年程養えるでしょう」
「ずいぶんと、貯めこんだものだな」
「はい、でも流民の数はそれをはるかに超えるでしょう」
「今年も日照りのようじゃ、ずいぶんと野垂れ死にがでるじゃろう」
「すべてを救うことはできません」
「そうじゃな」
「それで、言いにくいのですが、選別してほしいのです」
「それで、わしか」
「はい」
「そうじゃな、好胤じゃったら、あれもこれもかわいそうじゃ、といって皆連れて行くであろう」
「そうでしょうね」
「また、ひどい役回りじゃな」
「もうしわけありません」
「で、どのような者を送ればいいのじゃ」
「老若男女は問いません。人の役に立とう、人を助けようという志のあるものを選んでください。あと子供です。この飢饉がいつまで続くかわかりませんが、そのような者達であれば、苦しくとも助け合って持ちこたえることができるでしょう」
「わかった。ひとでなしの所業じゃが、それでも二万を救えるのなら、やってやろう」
片田の前では、そういったが、わしが一言いえば救える命を、日々見捨てていくことが、これほど堪えるものだとは思わなんだ。覚慶はそう思った。
始めたことじゃ、最後までやり抜かなければならぬ。




