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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
487/609

関東の情勢 1


「つまり、京都の幕府と同じように、鎌倉にも鎌倉府かまくらふを置き、その下に鎌倉公方くぼう、関東管領かんれい政所まんどころ問注所もんちゅうじょ侍所さむらいどころ評定衆ひょうじょうしゅうを置いた」


 兵学校の社会科の授業だった。石出いしで藤次郎とうじろうも受講している。この第一師団には士官学校も併設されている。教師は両方を兼任していた。今は室町幕府の行政組織についての授業だった。


「ん、なんだ」教師が挙手する生徒を指名した。この授業では、黙って挙手すれば、いつでも質問を受け付ける、と教師が言っていた。

「はい、なぜ京都に幕府があるのに、鎌倉に政所、問注所など、同じ組織を作ったのでしょうか」

「おう、いい質問だな。分かる者はいるか」みな、黙って座っている。

「そうか、鎌倉公方というのはだな、関東十か国を、将軍に代わって統治するために置かれた。なぜ、関東十か国だけ、特別に公方を置いたかというと、関東武士の力があなどれなかったからだ」

「あなどれないのですか」質問した生徒が言った。

「そうだ。室町幕府自体が関東から立って、後醍醐ごだいご御門みかどが行った建武けんむの混乱を正した。関東武士の威力とはそれ程の物なのだ」


「より、古い例を出すならば、頼朝よりとも公も、伊豆に配流はいるされていたところに身の危険を感じて挙兵し、当初は敗れる」

「敗れたが、安房あわに上陸し、房総の上総氏、千葉氏を味方につける。さらに武蔵むさしに入り、足立あだち氏、葛西かさい氏、畠山はたけやま氏、河越かわごえ氏、江戸氏なぞが続々と参陣し、『富士川の戦い』の時までには、九条兼実かねざねの日記、『玉葉ぎょくよう』によると、四万騎の規模になっていた」

「頼朝公の場合、これほどになるのに、当時でも二か月しかかかっていない。京都まで便りが届き、それから出陣していては、間に合わないであろう」

「それは、そのとおりです」

「なので、鎌倉にも幕府と同様の出先機関が必要だったのだ」

「よく、わかりました」

「よろしい。このようなことは、古来他にも例がある。古代においては『壬申じんしんの乱』というものがあった。吉野を出奔しゅっぽんした後の天武てんむ天皇が、どのような経路をたどり、兵を集め、『瀬田せた橋の合戦』で勝利したのか、調べておくように。本日の宿題とする」

 いかにも、軍学校の教師のような論のすすめかただった。頼朝の挙兵と、大海王子おおあまのおうじ挙兵に相似形そうじけいを見出している。




「鎌倉公方が置かれた当初の狙いは、いま説明したとおりだ。しかし、うまくいかなかった。うまくいかないどころか、鎌倉府自体が、反室町幕府の拠点になってしまう」

「鎌倉公方設置からわずか三十年、第二代公方、足利氏満うじみつにして、すでに中央の混乱に乗じて上洛じょうらくくわだてた」

「『永享えいきょうの乱』(一四三八~三九年)には、第四代鎌倉公方足利持氏もちうじが、補佐役である関東管領上杉憲実のりざねと対立することになった。室町幕府が関東管領の任命権を持っていたからだ。従って、関東管領は室町幕府の意に逆らうことは少ない」

「結果、持氏は敗北、自害することになるが、結城ゆうき氏朝うじともが持氏の遺児いじを奉じて挙兵し、翌年『結城合戦』となる。ん、なんだ」

「ということは、関東の地侍は中央からの独立をねらっていたのでしょうか」

「さて、どこまで本気だったか、それはわからない。幕府に納める守護分担金の減免だったかもしれんし、独立を画策していたのかもしれない。もしかしたら、室町を打倒しようとしていたのかもしれん」


「鎌倉公方は、一時断絶することになるが、十年後。持氏の子、足利成氏しげうじ

室町幕府から鎌倉公方に任命される。結城合戦の時、成氏だけが参戦していなかったことが評価された」


「ところが、これもうまくいかなかった。成氏の周りには父持氏以来の関東武士団がいたからだ。成氏は時の関東管領、上杉憲忠のりただを鎌倉御所に呼び出して、これを謀殺ぼうさつする。憲忠は先の管領憲実の実子だ。これにより、以後三十年にも及ぶ『享徳きょうとくの乱』が始まる」


「幕府は上杉氏を支持し、成氏追討の綸旨りんじ御旗みはたを得る。成氏は朝敵となったわけだ。その後成氏は諸方を転々としたが、最後に下総しもうさ古河こがに落ち着き、以後は古河こが公方くぼうと呼ばれるようになる。ん、なんだ」

「なぜ、鎌倉から古河に移ったのでしょうか」


「ああ、それはだな。当時の関東武士や管領の領地を見るとわかる。関東管領を出してきた家というのは、これまで出てきたように上杉氏だ。上杉氏は当時、大きく二つあった。山内やまのうち上杉うえすぎが本家で、分家に扇谷おうぎがやつ上杉うえすぎがある。

 山内上杉の領地は上野こうずけ(群馬県)と武蔵むさし北部(埼玉県あたり)であり、扇谷上杉は武蔵南部と相模さがみ(神奈川県)だった。鎌倉は扇谷上杉に囲まれている。そんなところにいたら、危ない」

「それで、古河だったのですか」すでに授業というより講談こうだんになっている。教師の調子があがり、生徒も挙手などせずに合いの手を入れる。


「急ぐな。他の関東武士の位置も説明する」

「ハイ」

「当時の主な武士としては、下野しもつけ(栃木県)に宇都宮氏、常陸ひたち(茨城県)北部に佐竹氏、南部は結城氏だ。下総しもうさ(千葉県北部)上総かずさ(同中部)に千葉氏、安房あわには里見さとみ氏がいた」

「と、いうことは」

「大体関東の東半分が関東武者、西半分が関東管領家、ということだ」


「だとすると、古河という場所は、両者の最前線中央ということになりますね」

「その通り、なので、足利成氏は古河に城を築き、本陣とした」


そして、鎌倉は公方不在となったので、室町幕府は新たな鎌倉公方を送ることにする」

「鎌倉公方の家柄は、代々足利尊氏たかうじの四男、基氏もとうじの家系だ。持氏も、成氏も鎌倉を本拠としている。それに対して室町将軍家は尊氏の三男、義詮よしあきらの家系だった。もはや、基氏の家系では、関東武者との癒着ゆちゃくは切れないだろう。そう判断した」

「そして、僧籍そうせきにあった清久せいきゅう還俗げんぞくさせ、足利政知まさともとして『天子の御旗』を持たせて鎌倉に送る。政知の父親は足利第六第将軍、あの『恐怖将軍』足利義教よしのりだ。政知は、この時の将軍、足利義政の異母兄弟だった」


「このままだと、東関東対西関東の争いになりそうですね」


「そのとおりだ、しかし、政知は伊豆で足止めされてしまう」

「なぜですか、相模は扇谷上杉の支配下にあったのではないのですか」

「どうも、扇谷上杉の支配が不完全だったようだ。地侍じざむらいを完全に掌握できていなかった」

「結局、そんなところにも、反室町の関東武者がいた、ということですね」

「そうだ。政知は伊豆を流れる狩野川かのがわ下流、堀越ほりこしというところにとどまることになる。なので、以降これを堀越ほりこし公方くぼうと呼ぶ」

「『天子の御旗』も情けないことになりましたね」


「そうだな、しかし、やれ、これで役者が大体そろった」

「どういうことですか」


「古河公方成氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏、そして堀越公方政知が出そろったということだ」

「と、いうと、まだ話は続くのですか」

「話は、これからだ。まだ長禄ちょうろく元年がんねん(一四五七年)ではないか」


「ふぇえ~」生徒一同が、感嘆の声をあげる。


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― 新着の感想 ―
鎌倉公方・古河公方の説明がとても分かりやすかったです
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