関東の情勢 1
「つまり、京都の幕府と同じように、鎌倉にも鎌倉府を置き、その下に鎌倉公方、関東管領、政所、問注所、侍所、評定衆を置いた」
兵学校の社会科の授業だった。石出の藤次郎も受講している。この第一師団には士官学校も併設されている。教師は両方を兼任していた。今は室町幕府の行政組織についての授業だった。
「ん、なんだ」教師が挙手する生徒を指名した。この授業では、黙って挙手すれば、いつでも質問を受け付ける、と教師が言っていた。
「はい、なぜ京都に幕府があるのに、鎌倉に政所、問注所など、同じ組織を作ったのでしょうか」
「おう、いい質問だな。分かる者はいるか」みな、黙って座っている。
「そうか、鎌倉公方というのはだな、関東十か国を、将軍に代わって統治するために置かれた。なぜ、関東十か国だけ、特別に公方を置いたかというと、関東武士の力があなどれなかったからだ」
「あなどれないのですか」質問した生徒が言った。
「そうだ。室町幕府自体が関東から立って、後醍醐の御門が行った建武の混乱を正した。関東武士の威力とはそれ程の物なのだ」
「より、古い例を出すならば、頼朝公も、伊豆に配流されていたところに身の危険を感じて挙兵し、当初は敗れる」
「敗れたが、安房に上陸し、房総の上総氏、千葉氏を味方につける。さらに武蔵に入り、足立氏、葛西氏、畠山氏、河越氏、江戸氏なぞが続々と参陣し、『富士川の戦い』の時までには、九条兼実の日記、『玉葉』によると、四万騎の規模になっていた」
「頼朝公の場合、これほどになるのに、当時でも二か月しかかかっていない。京都まで便りが届き、それから出陣していては、間に合わないであろう」
「それは、そのとおりです」
「なので、鎌倉にも幕府と同様の出先機関が必要だったのだ」
「よく、わかりました」
「よろしい。このようなことは、古来他にも例がある。古代においては『壬申の乱』というものがあった。吉野を出奔した後の天武天皇が、どのような経路をたどり、兵を集め、『瀬田橋の合戦』で勝利したのか、調べておくように。本日の宿題とする」
いかにも、軍学校の教師のような論のすすめかただった。頼朝の挙兵と、大海王子挙兵に相似形を見出している。
「鎌倉公方が置かれた当初の狙いは、いま説明したとおりだ。しかし、うまくいかなかった。うまくいかないどころか、鎌倉府自体が、反室町幕府の拠点になってしまう」
「鎌倉公方設置からわずか三十年、第二代公方、足利氏満にして、すでに中央の混乱に乗じて上洛を企てた」
「『永享の乱』(一四三八~三九年)には、第四代鎌倉公方足利持氏が、補佐役である関東管領上杉憲実と対立することになった。室町幕府が関東管領の任命権を持っていたからだ。従って、関東管領は室町幕府の意に逆らうことは少ない」
「結果、持氏は敗北、自害することになるが、結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵し、翌年『結城合戦』となる。ん、なんだ」
「ということは、関東の地侍は中央からの独立を狙っていたのでしょうか」
「さて、どこまで本気だったか、それはわからない。幕府に納める守護分担金の減免だったかもしれんし、独立を画策していたのかもしれない。もしかしたら、室町を打倒しようとしていたのかもしれん」
「鎌倉公方は、一時断絶することになるが、十年後。持氏の子、足利成氏が
室町幕府から鎌倉公方に任命される。結城合戦の時、成氏だけが参戦していなかったことが評価された」
「ところが、これもうまくいかなかった。成氏の周りには父持氏以来の関東武士団がいたからだ。成氏は時の関東管領、上杉憲忠を鎌倉御所に呼び出して、これを謀殺する。憲忠は先の管領憲実の実子だ。これにより、以後三十年にも及ぶ『享徳の乱』が始まる」
「幕府は上杉氏を支持し、成氏追討の綸旨と御旗を得る。成氏は朝敵となったわけだ。その後成氏は諸方を転々としたが、最後に下総古河に落ち着き、以後は古河公方と呼ばれるようになる。ん、なんだ」
「なぜ、鎌倉から古河に移ったのでしょうか」
「ああ、それはだな。当時の関東武士や管領の領地を見るとわかる。関東管領を出してきた家というのは、これまで出てきたように上杉氏だ。上杉氏は当時、大きく二つあった。山内上杉が本家で、分家に扇谷上杉がある。
山内上杉の領地は上野(群馬県)と武蔵北部(埼玉県あたり)であり、扇谷上杉は武蔵南部と相模(神奈川県)だった。鎌倉は扇谷上杉に囲まれている。そんなところにいたら、危ない」
「それで、古河だったのですか」すでに授業というより講談になっている。教師の調子があがり、生徒も挙手などせずに合いの手を入れる。
「急ぐな。他の関東武士の位置も説明する」
「ハイ」
「当時の主な武士としては、下野(栃木県)に宇都宮氏、常陸(茨城県)北部に佐竹氏、南部は結城氏だ。下総(千葉県北部)上総(同中部)に千葉氏、安房には里見氏がいた」
「と、いうことは」
「大体関東の東半分が関東武者、西半分が関東管領家、ということだ」
「だとすると、古河という場所は、両者の最前線中央ということになりますね」
「その通り、なので、足利成氏は古河に城を築き、本陣とした」
そして、鎌倉は公方不在となったので、室町幕府は新たな鎌倉公方を送ることにする」
「鎌倉公方の家柄は、代々足利尊氏の四男、基氏の家系だ。持氏も、成氏も鎌倉を本拠としている。それに対して室町将軍家は尊氏の三男、義詮の家系だった。もはや、基氏の家系では、関東武者との癒着は切れないだろう。そう判断した」
「そして、僧籍にあった清久を還俗させ、足利政知として『天子の御旗』を持たせて鎌倉に送る。政知の父親は足利第六第将軍、あの『恐怖将軍』足利義教だ。政知は、この時の将軍、足利義政の異母兄弟だった」
「このままだと、東関東対西関東の争いになりそうですね」
「そのとおりだ、しかし、政知は伊豆で足止めされてしまう」
「なぜですか、相模は扇谷上杉の支配下にあったのではないのですか」
「どうも、扇谷上杉の支配が不完全だったようだ。地侍を完全に掌握できていなかった」
「結局、そんなところにも、反室町の関東武者がいた、ということですね」
「そうだ。政知は伊豆を流れる狩野川下流、堀越というところに留まることになる。なので、以降これを堀越公方と呼ぶ」
「『天子の御旗』も情けないことになりましたね」
「そうだな、しかし、やれ、これで役者が大体そろった」
「どういうことですか」
「古河公方成氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏、そして堀越公方政知が出そろったということだ」
「と、いうと、まだ話は続くのですか」
「話は、これからだ。まだ長禄の元年(一四五七年)ではないか」
「ふぇえ~」生徒一同が、感嘆の声をあげる。