フィレンツェ 3
フィレンツェは内陸部の盆地にある街だった。この街がなぜ、ルネサンスの中心となるまでに発展したのだろう。
当時のイタリアは、海沿いの港町が貿易で栄えた。イスラム教徒を経由してアジアの香辛料、陶器、絹などを購入し、北西ヨーロッパに運んで販売する。そういう仕組みだ。
なので、イタリア半島東西の付け根にあるジェノヴァ、ヴェネツィア、がまず、栄える。販売地である北西ヨーロッパに最も近いからだ。より長く船で運んだ方が有利に決まっている。
さらに古代からの港、ピサ、ナポリなども栄えた。
それに対して、フィレンツェは、海が無い。それなのに何故、繁栄したのだろう。
ターシャス・チャンドラーという歴史的な都市人口の研究をした歴史学者がいる。その学者の推定による西暦一二〇〇年と一三〇〇年の都市人口を見てみよう。左側の数字が一二〇〇年の人口で単位は『人』だ。
この数字は、日本語Wikipediaの、『歴史上の推定都市人口』というページから拾った。
ナポリ 30,000/35,000 港町
ローマ 35,000/30,000 宗教都市
シエナ 15,000/21,000 内陸都市、フィレンツェのライバル
ピサ 30,000/25,000 港町、ただし堆積により港機能を喪失
ジェノヴァ 30,000/85,000 港町
ミラノ 60,000/60,000 内陸 北西ヨーロッパへの陸路の窓口
フェラーラ 18,000/23,000 内陸
ヴェローナ 33,000/36,000 内陸 北西ヨーロッパへの陸路の窓口
ヴェネツィア 70,000/110,000 港町
フィレンツェ 15,000/60,000 内陸 30,000/60,000 という研究もある
である。百年の間に人口が四倍に増えている。ピサなどは港の喪失で逆に減人口が少している。この間にコルシカ島をジェノヴァに取られたのが痛かったのかもしれない(増加した、という研究もある)。
内陸の都市、シエナ、ミラノ、フェラーラ、ヴェローナなどは増えていても数割といったところだ。フェラーラはサヴォナローラの出身都市で、それ以外にも今後物語に登場する可能性が高いので載せている。
これだけ劇的に人口が増えているならば、普通に考えると戦争で広い領土と人民を吸収した、と考えたくなる。しかし、この間のフィレンツェは領土を拡大していない。都市国家の周りは神聖ローマ皇帝領で、うかつに切り取ることはできなかった。
では、なにがフィレンツェの繁栄の原因になったのか。
以前、イタリアは西ローマ帝国以来、文明の接点になったと書いた覚えがある。その接点の両側にはいろいろな勢力があった。
初期にはゲルマン対ビザンチン、イスラム教対キリスト教などが対立し。後にはノルマン人、アラゴン、フランスなども登場する。
それ以外にも、神聖ローマ皇帝対教皇、という対立軸もあった。
西暦一二〇〇年代のイタリア北部と中部は神聖ローマ帝国の中に、フィレンツェやジェノヴァ、ヴェネツィアなどの都市国家が島ように浮かんでいる状態だった。島の一つに教皇領というものもある。
しかし、神聖ローマ帝国とローマ教皇の関係は込み入ったものだった。
神聖ローマ帝国は、西暦八〇〇年に遡る。『カールの戴冠』というやつだ。カールは当時のカトリック世界をほぼ統一することに成功した。
そこでローマ教皇が、ビザンチンの東ローマ皇帝に対抗するため、カールにローマ皇帝の称号を授ける。
ここから始まったので以後、神聖ローマ皇帝は、ローマ教皇により戴冠されることで即位するということになった。
東ローマのビザンチン帝国は、このことが気に入らなかったので、中世を通じてカトリックのローマ帝国を「フランク」と呼び捨てにしている。
やがて現在のフランスにあたる地域が分離独立し、九六二年の『オットー一世の戴冠』からは、ドイツとイタリアを合わせたような国になる。
この時を、神聖ローマ帝国の成立とする見方もある。ただし、『神聖ローマ』という名称が使用されるのは、もっと後の十三世紀頃からであり、この頃はまだ『ローマ王』とか、『ローマ皇帝』と呼ばれていた。
このように、神聖ローマ帝国内では、世俗の権力である皇帝と、宗教上の権力である教皇の二つが並立していた。そのことで争いが発生する。
たとえば、聖職者を誰が任命するのか、という問題について、両者は歴史上『叙任権闘争』という争いをおこした。
どっちが、より偉いかを争って『カノッサの屈辱』事件が発生する。このときは皇帝が泣いてあやまって教皇にゆるしてもらった。もちろん皇帝は後に復讐している。
このような有様なので、イタリア国内では皇帝派と教皇派に分かれて争うようになった。
ロミオのモンタギュー家は皇帝派でジュリエットのキャピュレット家は教皇派だった。
前置きが長くなったが、フィレンツェ内でも両者が争った。結果フィレンツェは教皇派が勝利し、以後ローマ教会に接近することになる。
既に毛織物産業が興っていたフィレンツェは商取引などに長けており、金融業が発生していた。そこで、ローマ教会に代わって教会の『十分の一税』の徴税代行を行い始める。
神の愛を説く司祭や教皇が、過酷に税金を取り立てるのは、あまり恰好の良い物ではない。そこで汚れ役を他人に任せることにした。
汚れ役ではあったが、フィレンツェにとっては、非常に実入りのいい仕事でもあった。
フィレンツェが、はじめはナポリ王国や教皇領、フランスで、やがて全カトリック教国で徴税を請け負い、その延長上で金融上の支店を設け、銀行業を始める。
金融業とは別に、実業でもフィレンツェは頑張っている。一二八二年、最終的に皇帝派を追い出し、第二次ポーポロ政府が成立するが、この時市政を担ったのは実業の同業者組合だった。
毛織物取引商組合、両替商組合、医者・薬種商組合、絹織物組合、毛織物業組合、法律家・公証人組合の七組合がその中心となり、その他十四組合とあわせて二十一の組合により市政を行ったという。
この七大組合が産業でフィレンツェを繁栄させた。特に毛織物業は、当時のヨーロッパの最高峰の技術だったといわれている。
毛織物を作成する工程は複数あり、労働力を集約しなければならない。
スペインやイングランドから原毛を仕入れてくる。それを撰び、洗い、打って、梳いて、刷く。このようにして初めて紡ぐことが出来るようになる。
紡がれた糸は織られて布になるが、これで終わりではない。
あまり聞きなれないが縮絨という工程がある。『フェルト化』とも言う。石鹸水の中に布を入れ揉むことにより繊維を絡ませる工程だ。
布の用途によって、浅く縮絨する場合や、フェルトのようにがんじがらめに絡みあうところまで縮絨させる場合もある。
石鹸が必要なので石鹸業者が必要であり、原料の油を扱う商人も必要だ。
縮絨が済んだら染色工程になる。大青は青色のインディゴの原料になる植物だ。赤は茜、黄色はキバナモクセイを使う。超高級品には貝紫だ。
毛織物に染料を固定させるために明礬を媒染材として使用する。安物であれば酒石を使うこともある。
さらにこれら一連の工程をおこなうにあたり使われる道具類を作る職人も必要だった。織機や糸車を作らなければならないし、染料を入れる壺も必要だ。はみ出した不要な糸を切るハサミだってないといけない。
大量の手工業が発生したことになる。
十三世紀のフィレンツェは七大産業と金融業で目覚ましく発展し、そして周辺から人口が大量に流入した。