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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
482/609

アゴスティーノ・ニフォ 


「ピサの街中にいってみるか」ユダヤ人商人ヤコブがシンガに尋ねる。

「行ってもいいのか」

「ああ、ドゥオモ広場近くの商店に商品を届けに行く、ついてくるがいい。ただ、気をつけるのだぞ、乱暴者に会うかもしれない」

 ロバをつないだ荷車に香辛料や薬草を載せて出発した。ヤコブは黒い服に黄色い布を付けていた。ユダヤ人であることのしるしだった。シンガはピサの人々と同じような服装だ。


 ヤコブの商店から城壁沿いに北に向かう。川沿いを東に行ってもいいのだが、人通りが多いので災難に巻き込まれるかもしれなかった。

 道の左側はどこまでも続く城壁、右側は松の木が並んでいる。遠くから見るとキノコのような形をしている傘松かさまつだ。そして、地中海の青空だった。まっすぐ続く道の先に、わずかに白い雲がかかっている。

 彼らが歩いている道は、現代の『ニコーラ・ピザーノ通り』にあたる。現在は左側の城壁がない。当時より市街が拡がっていて、城壁は西に移動している。


 道沿いは菜園が続き、ところどころに家があるばかりだ。右手奥にピサの中心街の赤い屋根が見える。正面遠くには、菜園の向こうに洗礼堂せんれいどう、大聖堂、斜塔が見えた。洗礼堂の丸屋根が赤く、それ以外は真っ白だった。


 現代のニコーラ・ピザーノ通りは、ピサ大学の敷地にはばまれて、途中で行き止まりになるが、当時はドゥオモ広場まで繋がっていた。

『ヌォーバ門』のところで広場に出る。シンガの目の前にさえぎるものなしに、サンジョバンニ洗礼堂がそびえたつ。そして、その向こうにピサ大聖堂が見える。


「ふぁあ、すごいもんだね。あれ、全部白い石で出来ているのかな」シンガが言う。

「さて、中に入ったことがないので、わからんな」ヤコブがロバを曳きながら言った。


 ドゥオモ広場は、キリスト教の坊さんが黒い服を着て数人歩いているだけで広々としている。この当時、観光客は、いたとしてもわずかだったろう。

 二人は向きを東に変え、ドゥオモ広場の南端を進む、広場の途切れたあたりが目座す商店だった。


「ヤコブさん、あの塔、右に傾いてない。大丈夫なのかなぁ」シンガがピサの斜塔を見ていった。

「さてのお、わしがここに来た時から傾いておる。いつか倒れるかもしれんの」ヤコブさんは普段は穏やかな人だったが、キリスト教に対しては冷淡だった。


 三百メートル程も広場を歩き、やっと端にある目的の店に着く。現在の『ローマ通り』の角にある。なお隣を通る、現代の観光客が赤いパラソルのカフェでくつろぐ『サンタ・マリア通り』は、当時の古地図を見た限りでは、まだ出来ていない。


 ヤコブとシンガが商品を持って中に入る。ヤコブが店主に声をかけ、店主が商品を改め始めた。

「外で待ってていいか」シンガがヤコブに言う。

「ああ、いいが、気を付けるんだぞ」


 外に出て、あたりを見回す。ロンドンとはかなり違う。子供を見つけて話しかけてみる。覚えたてのイタリア語を試してみたかった。

「坊や、なんていう名前だぃ。かっこいい服を着てるね」

「あっ、お兄さん、だれ」

「僕はシンガっていうんだ」

「お兄さんて、もしかして、モロさん」モロとは moro と書く。『色黒い者』と言う意味で、当時のトスカナ地方の人々はアフリカ系、アジア系をひとくくりにしてモロと呼んだ。

 この当時、アフリカ系、アジア系の人々が少数ではあるがピサやフィレンツェにもいた。

 当時の洗礼せんれい記録や奴隷売買契約書が残っている。異国の奴隷の出身地として、タルタル人(モンゴル系)、サラセン人(イスラム圏)、インディア(インド系)などと記されている。

「モロって、なんだぃ」

「モロは、肌の色が……」


「おい、奴隷。子供に何をしている」背後から若い男の声が聞こえて、ついで笑い声がいくつも聞こえた。男の子が逃げていった。

 シンガが振り向くと、五、六人の若者が立ってこちらを向いている。

「あ、なにもしていません。名前を聞いただけです」シンガがあわてて言う。

「子供をさらうつもりだったんだろう」先頭の男が言う。

「奴隷のくせに、とんでもないやつだな」背後で腕を組んだ男が続けた。

「こいつ、ちょっといためつけないと、二度とふざけたまねが出来ないようにな」


 店の奥から小切手を持ったヤコブが出てくる。

「すまなかった、私の従者だ。怪しいもんではない」


「なんだ、ユダヤ人か、すっこんでろ」

「僕は奴隷じゃないし、怪しい者でもない。商売をしにピサに来た商人だ」シンガがそう言う。

「なんだ、こいつの言葉、不思議な話し方だな」そういって若者たちが笑う。無理もない、とっさに出たのは、覚えたてのトスカーノとラテン語のチャンポンのような言葉だった。

「言葉もろくにしゃべれねぇのに、商人がつとまるわけがないだろう」そうだ、そうだ、と相槌あいづちを打つ。


「君たち、手荒なことはやめなさい」もう一つの声が若者達の背後から響く。彼らが振り向く。黒い僧服を着た学者然とした若者だった。

「なんだ、お前」

「パドヴァの大学から来たアゴスティーノ・ニフォというものだ。出版したばかりの本の紹介のため、ピサに来た」

「なんだ、学者か」物をっている男とトラブルになると、ろくなことにならない。法律やらなんやら使ってくるかもしれない。

「ちぇっ、よかろう、許してやる。二度とふざけた真似をするんじゃねえぞ」そう吐き捨てて、若者の集団が去っていった。


「学者様、ありがとうございます」ヤコブが言う。

「わたしは、まだ学者ではありませんよ。学生のようなものです」

「助けてくれて、ありがとう」シンガも言った。

「君さ、さっきラテン語しゃべっていなかったか。それで興味が湧いて助けてみたんだが」


「僕はラテン語を話せますよ。Ars longa, vita brevis (学芸の道は長く、人生は短い) . homines dum docent discunt(人は教えている間に学ぶものだ).」シンガがラテン語で言った。


「すごい。流暢りゅうちょうなラテン語を使うモロなぞ、初めて見た。どこで覚えたんだ」アゴスティーノ・ニフォと名のる若者が感嘆かんたんした。


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