除虫菊 (じょちゅうぎく)
茸丸が自分の研究室で鍛冶丸から来た手紙を読んでいた。なんでも、連続紙を作ろうとしているらしい。
もし、テレタイプが実用化されたら、連続紙が必要になる、と書かれていた。いつ、通信が来るのかわからないのが、テレタイプである。いざ、というとき紙が切れていたら、せっかくの受信電文が失われる。
なので、長く連続した紙が必要になる。
そう書かれていた。現代のトイレットペーパーのようなものを想像すればいい。ベルトコンベアの上で漉き紙を連続的に移動させて乾燥させ、巻き取るのだそうだ。
なるほど、そのとおりだ。茸丸が読みながら頷き、シイタケ煎餅を齧る。
香ばしくて、うま味がある。干しシイタケ加工で出るシイタケ粉を、煎餅生地に練り込んである。
次の手紙は堺の『ならべ』からだった。手紙のタイトルは『計算機関における命令内蔵方式についての考察』とあった。中身を読んでみても、さっぱりわからない。
この時代、各地に散らばった研究者や技師は、自分の研究や発明を公開するためには、手紙を使うしかなかった。これはルネサンス期の西洋でも同じだった。
手紙の文面は、各自が謄写版で送付先の数だけ印刷する。
研究者の作成した原稿を複製して学術誌とする。年に一回程度集まって、出来た学術誌を元に研究発表する機会を持つ。
そんなことを取り仕切ってくれる組織が必要だろう。茸丸は考えていた。そこで彼の研究所内に『学会事務局』というものを作り、『第一回学会』を片田村で開催する準備をしている。この時代にはまだ、生物学とか工学などの分野に分かれているわけではない。
あえていえば、すべて哲学になる。
「所長~っ、ちょっと見て欲しいもんがあるんですけど」そういって、研究員が入って来る。朝倉村の夏実という娘だった。
ちょっと、かわった所があるけれども、熱心に研究する。
「なにが出た」茸丸が尋ねる。
「たぶん、除虫菊がみつかったんじゃないかと思うんです」
「なに、それはすごいじゃないか」茸丸の心が躍る。除虫菊が見つかれば『蚊取り線香』が作れる。この線香があれば、伝染病を減らすことが出来る。
夏実に従って、広い共同研究室に行く。
「これです」夏実がそういって、緑色の粉末を見せる。
「何番の鉢だ」
「え~と、三十九番です」
「そうか、試してみてくれ」
「わかりましたぁ」
村上雅房がピサのユダヤ人商人に花の種を注文した。片田が未来で模写してきた絵を元に、似たような花、葉の形の種を探してほしい、と。
店で種袋にはいっているような種ではない。乾燥した花のまま購入した。
そして、それらの種を日本に持ち帰り、枯れた花の形で分類して、茸丸の温室で栽培した。
三カ月か四カ月で、どの鉢にも白い花が咲いた。その花を摘み、乾燥させ粉末にする。温室を使っているので、年に三、四回栽培できる。
実験台の上に、薄いガラス板が敷かれ、その上に小さな香炉が置かれている。炉の中には木炭の熾火が鈍い光を放っている。
夏実が熾火の上に香道で使う銀葉(雲母片)を置き、その上に三十九番の粉末を少し載せる。
白い煙が漂いだしたところで、透明なビーカーを逆さにして蓋をする。ビーカーの中に煙が溜まる。
蟻を飼育しているガラス箱から、夏実がピンセットで一匹の蟻を取り出す。
「所長、いきますよ」夏実が言う。
「いいぞ」
ビーカーを少し傾けて、中に蟻をいれて、素早く蓋をする。二人が観察していると、蟻が苦しがり、やがて痙攣して、動かなくなった。
「二酸化炭素で窒息しているだけじゃないのか」茸丸が言う。
「そんなことは無いと思いますよ、他の番号のだと、こんなに急速に死んでしまうことはありませんから。試してみましょうか」
「ああ」
夏実がビーカーを元に戻して、煙をはらう。そして、蟻に向かって手を合わせて、ピンセットで掬い、脇の箱にいれた。
この箱の中の蟻は、あとで、研究所敷地内の供養塔に埋葬される。
「じゃあ、三十八番でやってみますよ」
そういって、先ほどの同じように蟻をいれる。白い煙のなかで、蟻は元気に動き回っていた。
「確かに、二酸化炭素による窒息ではないな」
「でしょう」
「蚊でやってみることは、出来ないな。まだ春だから」茸丸が言った。さすがに、実験用の蚊の飼育はしていなかった。
「外の木陰にいけば、藪蚊がいるかもしれません。小さなビーカーを使えば、私の血を吸っている間に捕まえられるでしょう」
「やってみるか」茸丸は言ったが、考えただけで痒くなってきた。
「はいっ。じゃあ、ちょっと行ってきます」
夏実が小さなビーカーを左手で握り、右手で虫籠を持って、実験室から出ていった。夏実を待つあいだ、茸丸は蟻を使った実験を再度繰り返してみる。
しばらくして、夏実が帰って来る。若い娘だというのに、あちらこちら、蚊に食われて赤くなっている。
「五匹くらい、捕まえてきましたっ」夏実が虫籠を叩きながら、嬉しそうに叫ぶ。
「その蚊、どうやって、あのビーカーの中に入れるんだ」
「さて、どうしましょうか」
虫籠の入口に小さなビーカーを付けて、籠の反対側を叩いたりしてみる。やっと、一匹、小ビーカーの側に出てきた。小さなガラス板で蓋をする。
「で、ここからどうする」
「そうですね、逆さのまま、実験台に置いて、下のガラス板をとってください」
「次は」
「え~と、え~と。さっきのビーカーじゃ小さいですよね」
茸丸が周りを見回す。防湿ビンがあった。デシケーターとも言う。洗面器程の大きさがあった。
「夏実、あれを使うか。となりのビンに中の物を移せ」
夏実がデシケーターを逆さにして、香炉で煙を満たす。
「所長、いいですよ、所長のビーカーをこっちに滑らせてください」そういって、デシケーターを傾けて入り口をつくる。
「よし、いくぞ」そういって茸丸が、蚊の入った小さいビーカーを台の上で滑らせ、デシケーターの下に入れる。
「ビーカーを開けたらすぐに手を引くから、すぐに防湿ビンを閉めるんだぞ」
「わかりました、所長ぅ」
「三、二、一、いまだ」そういって、茸丸が小さいビーカーを開け、ビーカーを掴んだ手をひっこめた。
「あ、所長、蚊がビーカーの壁に止まったままです」そういって、デシケーターを閉めた。
「え、なんだって」茸丸が手の中のビーカーを覗き込む。蚊がいた。そして、プーンという音をたてて、天井の方に飛び去る。
「あ、逃げた」二人が叫ぶ。
「もう一度、やりなおしだ」茸丸が言った。そして同じ手順を繰り返す。
「所長、小ビーカーを抜かなくてもいいです。デシケーターの中で、横に倒したら手だけを抜いてください」
「わかった。三、二、一、いまだ」茸丸がビーカーを倒して、手をひっこめる。二人が目を寄せる。
転がった小ビーカーの縁に蚊がとまっていた。ビーカーの中にゆっくりと煙が侵入する。蚊が震えはじめ、落ちた。
あおむけになって、数回痙攣して、動かなくなる。夏実が手を合わせる。
「夏実、やったぞ」
「そうですね、所長」うれしそうな声を挙げる。
「よくやった、これで何万人、何十万人の命が救われるかもしれないぞ」
「おーっ、ホントですか」
「本当だとも、夏実、拳をあげるぞ、いいか」
「いいですよ」
「よし、オーッ」
「オーッッ!」
そういって、二人が天井に向かって拳を振り上げた。
拳を降ろした茸丸が、首筋の後ろを掻く。さっき逃げた蚊が逆襲したらしい。