竜骨(キール)
次の年、長禄二年は、西暦で言うと一四五八年である。もちろん片田は知らない。石之垣太夫は応神天皇陵の濠を囲む堤を作り始めていた。彼の手元にはふうの平板測量器があった。
ある日、ふうが太夫に「やる」といって渡してくれた。
「ほんとうにもらっていいのか」
「欲しがっている、って『じょん』から聞いた。今年の工事は難しくないから、いちど『とび』の村に帰る。帰ったら、もうひとつ作ろうと思う」
「それじゃあ、ありがたくいただくことにするぞ」
そして、ふうは数日かけて使い方を詳しく説明して、村に帰っていった。
この年の二月造建仁寺船が朝鮮より帰ってきた。一時の事ではあるが、幕府の財政にゆとりができ、義政は大いに喜んだ。どれくらい喜んだかというと、山名宗全を赦免するほどであった。宗全は、畠山氏の義就、弥三郎の家督相続争いの際、弥三郎を支持して国に隠退させられていた。宗全は幕政に復帰した。
一方で神璽を奪回した赤松氏も八月には再興を許され、加賀半国の守護職を与えられた。彼らは、もともとの領地である播磨を宗全から奪回しようとしている。
片田は相変わらず穀物、豆などを海外から輸入していた。
「たまに仕事をすると思えば、あさっての方の仕事ばかりする」堺の片田商店の番頭、大黒屋惣兵衛はこぼす。片田村を管理する石英丸からも、そろそろ古くなった穀物を送るのをやめてほしい、といってきていた。彼らは古米などを焼いて、せんべいにして、保存していた。
片田は博多の若狭屋五郎に手紙を送った。来年は年初からシラスと石灰岩を送ってくるようにという指示だ。
五月、堺の港に、流線形の胴体を持った、変わった小舟が入ってきた。舟には二人の青年が乗っている。年の頃はどちらも二十歳ほどだ。
二人は、陸にあがり、小舟を舫い、片田商店に入っていった。
「よくきたな。茸丸、安宅丸。どれ、見せてみろ」そういって、片田は外に出た。
「これだよ」安宅丸が小舟を指さす。
船首材は熱をくわえられており、きれいな曲線をなしていた。船尾肋板は半円形の板でつくられており、船尾材が直角に取りけられている。両者のあいだには、これも熱で流線形に変形させた条板が何枚も、銅の釘で張り合わされていた。条板の張り合わせ部分は、きれいに鉋がかけられており、なめらかであった。底板で見えなかったが、船の底には縦に竜骨が置かれているのだろう。
条板の内側には、一尺間隔で肋材が置かれて、船体を補強している。
今後、帆船に関する話題が増えてくる予定である。日本語が使える場合にはなるべく日本語を使うつもりであるが、該当する日本語が無い場合には、西洋帆船の用語を使っていく。
「ずいぶん短い間隔で肋材を付けたな」
「このまま大きくできるように、多めに付けたんだ。条板の型紙や船体の型材ももってきた。そのまま数倍すれば、大きな船も作れる」
「それで、帆柱が二本あるのか」
「そうだよ」
小舟なのに、帆柱が二本あるのはそういうわけだった。前が横帆、後ろは横帆と三角の縦帆だった。片田は知らなかったが、西洋の帆船で言えばブリッグのミニチュアだといえる。
「この船は二十五石(五トン弱)だけど、強度の試験をしたら、二万五千石くらいまでは、この構造でいけると思う」安宅丸が言った。
フランスの百二十門戦列艦、ドーファン=ロワイヤル(一七九三年就役)が五千トン強であるから、安宅丸の計算は間違っていない。
片田が舷側厚板に手を掛けた。頑丈な手ごたえだった。
この時期、堺では、新たな埠頭を作ろうという話が持ち上がっていた。寄港する船が飛躍的に増えていた。堺正面にある浅瀬を避けて、南部に細長い埠頭を海に向かって突き出す案と、浅瀬自体を出島にしてしまおう、という案があった。
片田が、出島に自費で造船所を作ろうという案を出した。船を持ちたがっている商人はたくさんいたので、この案が採用された。
安宅丸は片田商店に住み着き、造船所の建設に参加することになった。
このころ、ポルトガルのエンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator)の命を受けた探検家、ベネチアのアルヴィーゼ・カダモストはアフリカの最西端ダカール岬を越えて、アフリカのサハラ砂漠以南との交易ルートを開いた。
これより前の一四五三年にコンスタンチノープルの東ローマ帝国が滅亡している。このことを西洋の側から見ると、黒海、地中海を通して入って来ていた東方南方の文物がイスラム教徒国家により遮断されたということになる。西洋は、東方、南方への交易ルートを渇望していた。彼らはより南方へ、より東方へと航路を求めて探検していくことになる。




