世界の分割
少し前に戻る。コロンブスが第一回航海から帰ってきたのは一四九三年の三月十五日だった。日本では第十代室町幕府将軍足利義材が畠山政長とともに、河内高屋城の畠山義豊征伐を始めた頃だ。つまり、『明応の政変』の直前だ。
空に烏天狗が飛び始めている。
スペインのカトリック両王のイザベラは、西方の土地の発見を喜び、さっそくこれを時の教皇に伝え、スペインの土地であることを認めさせようとした。
イザベラの夫、フェルナンドはあまり関心がなかった。彼の関心は、イタリアに向けられている。
教皇は昨年就任したアレクサンデル六世で、スペイン人だった。母国スペインにとって有利な知らせに対して、翌年の五月に勅書を発行する。
「アゾレス諸島及びカーボ・ベルデ諸島の子午線から百レグア西の子午線より『西と南』にあるすべての新発見の土地をスペインのカトリック両王に与える」
それより東で新発見される土地はポルトガルのものだった。
という内容だった。子午線の『南』とはどこにあたるのか、さっぱりわからないが、とにかくそういうことだった。
レグアとは昔の距離の単位で、国と時代により様々だったが、大体五キロメートルくらいとしよう。
そうすると西経三十一度あたりで、地球表面を二つ分けたことになる。この時教皇の念頭に地球の反対側の事は無かったと思うが、反対側の境界は東経一四九度になる。なので、日本はポルトガル側で、新大陸のほとんどはスペインのもの、ということになった。
それまでは、既にスペイン領であった北緯二十七度のカナリア諸島より南で新発見される土地は全てポルトガル領になるということになっていた。
なので、スペインからすると、大躍進だった。
ポルトガルとスペインの間で、さぞや揉めるであろう、みなそう思ったが、両者は翌年の一四九四年六月七日に『トルデシリャス条約』を結び、あっさりこの問題に決着をつける。
ポルトガルが譲歩した理由はわからないが、一四八八年のバーソロミュー・ディアスの喜望峰到達により、アジアへの道に目途が付いたことが、理由の一つかもしれない。
ただし、境界は少し西にずらされて、西経四十六度三十分あたりになった。日本は岡山あたりで二分割され、西日本がポルトガル、東日本がスペイン領にされる。
もちろん、当時日本でそのことを意識したものは、一人もいない。
日本のことは、冗談にすぎないが、境界の西進により、後にブラジルがポルトガル領になる。中南米大陸のほとんどがスペイン語を用いるのに、ブラジルだけがポルトガル語を使用している理由がここにある。
もしかしたら、条約締結時に、ポルトガルはブラジルを知っていたのではないか、と言う者もいる。
歴史上ポルトガルのカブラルがブラジルに到達したのは一五〇〇年とされていて、トルデシリャスの六年後ではあるが。
なんで、こんなことを蒸し返したのか。一四九五年の初頭、コロンブスと、彼の新大陸植民者達がスペインに帰ってきてしまったのだ。
イスパニョーラ島の植民地も、放棄させられたという。これでは、せっかく昨年結んだ『トルデシリャス条約』が反故になってしまう。紙屑になるという意味だ。
「お前達が、植民地を放棄したのであれば、わが国が西の新大陸を領有する根拠がなくなるではないか」イザベラ女王が、戻ってきたコロンブスに言う。
「船の舷側に大量の砲口を備えた大軍艦に脅されたのです。やむをえませんでした」コロンブスが答える。
「舷側に砲口だと、それで船は壊れてしまわないのか」
「大丈夫のようです。二段十六門の一斉射撃をおこなっていましたが、敵艦はびくともしませんでした」
「二段とな、上下にか。そんな下の舷側に砲口を開けて、浸水しないのか」
「そんな様子はありませんでした」
イザベラが頭を抱える。
「とにかく、すぐにイスパニョーラ島に戻れ」
「しかし」
「その舷側に砲を置く軍艦をとり急ぎ作らせる」
「すぐに出来るのでしょうか」
「それは……、それまでの間、そうじゃ」そういってイザベラが声をひそめる。
「スペイン国内には、イスパニョーラ島に戻っていった、というふうに言っておく」
「と、いうと」
「とりあえず、カナリア諸島に潜んでおれ、その間に対抗する軍艦を建造させる」
「承知いたしました」
「そち以外に、帰ってきた船団で上陸した者はいないな」
「おりませぬ。港の検疫官の管理下にありますので」
「よろしい。では、誰も上陸させずに、すぐにカナリアに行くのだ」
「補給をいただけませぬと、出港できません」
「それは、かまわぬ。ただし荷積みの作業者と植民者の会話は禁止する。よいな」
「それも、承知いたしました」
コロンブスの植民者達は、本土の土を踏まずにカナリア諸島に送られた。イザベラがスペインの造船技師を呼んで相談する。
「舷側砲ですか」
「そうじゃ」イザベラがそう言ってコロンブスから聞いた限りの様子を伝える。
「最上甲板に横に大砲を並べることは、可能でしょう。そうですな、両舷それぞれに五、六門程を並べることはできるでしょう。ただし、船体の強度がどれほど必要か試してみなければなりませんし、船の重心が高くなり、転覆しやすくなります」
「二段十六門と言っていたが」
「二段といいますと、下甲板にも砲を並べるということになりますな」
「たぶん、そうじゃろう」
「重心の問題は解決しますが、それは無理ですな。艦が風を受けて傾いたときに、砲口から海水が流れ込んで沈没してしまうでしょう」
「無理でも、誰かがそれを実現しておるのじゃ、無理ではない」
「はて、そう申されましても、無理なものは無理……」
「●×、@#$%!……*+■△!」
イザベラが癇癪をおこして、謁見室から造船技師を放り出した。
舷側砲門の発明者は、イギリスの造船技師、ロバート・ブライアンだと言われている。一五一〇年代にヘンリー八世の命令で考案した。
・砲門は防水性を高めるために縁のところを革や樹脂で塞ぎ、密閉性を高めている。
・船の外側に開くようになっており、砲門が水面下になったときには自然に蓋が閉じるようになっている。
・内側から滑車やロープを使って簡単に手動で開閉できるようにしている。
などの工夫がなされていたという。




