バックギャモン
西暦一四九五年の秋の日曜日。グリニッジ宮殿の一室。シンガとマーガレットが向かい合って、タブラという雙六で遊んでいる。
バックギャモンの元になったゲームだ。
この頃のイングランドは、まだカトリックだった。日曜日は午前中に教会に行く。教会のミサは一時間から二時間くらいなので、午前中には家に帰って来る。マーガレットも午前中に宮殿の教会に行った。
日曜は仕事をしない、その代わりに午後は静かに神と宗教について瞑想しなければならないことになっている。
しかし、十五歳くらいの若者と娘が瞑想などするわけがない。
タプラのルールは、日本の双六に似ているところがある。
『ふりだし』から始めて、サイコロの目に合わせて、『あがり』まで、駒を持っていくところは同じだ。ただし、駒の初期位置が決まっていて、全部の駒が『ふりだし』からスタートするわけではない。
マス目は横に十二あり、手前と対戦者側それぞれに並んでいるので、二十四マスあるが、マス目には『ふたつ進め』とか『振り出しに戻れ』という機能はない。
駒は双方十五個ずつあり、サイコロの目に合わせて動かすのは、どの駒でもいい。
一つのマス目に複数の駒を置くことはできるが、敵と味方の駒は混在できない。
またマス目の中に駒が一つだけしかないときは、危険だった。その時に敵の駒に入られると、『ふりだし』に戻される。
交互にサイコロを振り、出た目に合わせて駒を進め、先にすべての駒を『あがり』に進めた方が勝ちになる。
このような型式のスゴロクを盤雙六という。日本にも飛鳥時代に伝来して、しばらく遊ばれていたが、江戸時代末にいったん途絶える。
十二世紀の鳥獣戯画には、雙六の盤を担いでいる猿が描かれている。よく絵を見るとバックギャモンの盤にそっくりだ。『枕草子』にも『源氏物語』にも雙六が登場する。
マーガレットが、両手を『お結び』を作るような形にして振り、パッとサイコロを盤に投げる。
三と六が出た。一番『ふりだし』に近い駒を九つ進める。マーガレットの遊び方は奔放だった。
シンガがサイコロを振る。駒が単独にならないように、駒の壁を幾つか並べて慎重に進める。
マーガレットは、勝ち負けはどうでもいいらしい。
「最近は、ブラック・ウォールにまでカタダ船が入って来ているの」マーガレットが言った。
「ああ、原材料に限って『航海条例』を免除されている」と、シンガ。
『航海条例』とは、イングランドと外国の間の交易はイングランドの船に限る、というもので、自国の海運業を発展させるのが目的だった。
原材料、たとえばガラスの原料の炭酸ナトリウムを直接本土に入れさせることになるが、それを使ってガラスを作れば何倍もの利益になる。
なので、よかろう、と議会が承認した。
作ったガラスや鏡を対岸のカレーやブルッヘ(ブリュージュ)、アントウェルペン(アントワープ)などに持っていくと高く売れる。自国の海運も栄えることになる。
原材料以外の香辛料、香木、陶磁器などは、いままでどおりオルダニー島に陸揚げするが、これも大陸に持っていくと、いい商売になった。
最近のロンドンは活気が出てきた。レドンホール・マーケットもロンドン橋も店が溢れ、街路に多くの市民が出ていた。
シンガがそんなことを説明する。
しかし、マーガレットが聞きたいのは『航海条例』や街の賑わいのことなどではない、シンガが頻繁にグリニッジに来れるようになるのか、を知りたかった。しかたない、話を変えることにしよう。
「その服、シンガに似合うわね」
「ん、なんか言ったか」
「服が、よく似合う、と言ったのよ」
「あ、そうか」そう言って、どの駒を動かそうか、に思考が戻る。
シンガは現地の服を着ている。一番内側にはアンダーシャツとボクサーパンツのような下着、たいがいは亜麻か絹だったが、彼は木綿製の下着を付けていた。そして、足にはストッキングのような長い靴下をはいた。これも綿だ。
片田商店が綿布をイングランドに持ち込んでいる。安宅丸やシンガ達は綿布に慣れているので、そちらを好んだ。
衣類にゴムを応用するのは、まだ先のことになるので、アンダーシャツの裾に靴下が結び付けられていて、ズリ落ちないようにしている。その上にホーズという半ズボンを履き、ダブレットという袖のある上着を着る。ダブレットは前開きになっていて金銀の刺繍がある。
シンガのダブレットはオレンジ色だった。インド産の蘇芳で染められている。高級な染料だ。ちなみに安宅丸は黒のダブレットを持っている。
蘇芳はポルトガル語でブラジルという。もともとは染料の名前だった。
新大陸に上陸したポルトガル人が、現地で似たような染料植物を見つけたので、同地を『ブラジルの地』と呼んだことから、現在の国名になった。
また、シンガの靴は革製でつま先が長かった。帯剣もしていた。
これらは、ヘンリー王の指示だった。この時代には、人の身分を決めるのは服装だった。安宅丸やシンガ達を貴族のように見せておけば、余計なトラブルに巻き込まれることは少なくなる。
「そうよ、どうみたって、高位の貴族の御曹司に見えるわ」
「窮屈なんだけれど」シンガが盤面に集中しながら言う。
「いいなぁ。王様の御墨付だもんね」
「わたしなんか、見てよ。エプロンよ」
「そりゃあ、侍女なんだから、エプロンを付けているだろ。エプロンが無い女の人は商売女だとみられる」
「でも、王侯貴族の奥様は、そんなことないわ」
「それは、しかたないよ」
マーガレットはどのようなものを着ているのか。まず一番内側の下着はスモックといわれる。長袖のTシャツのようなものだが、丈が膝から『ふくらはぎ』くらいまである。足には亜麻布で出来たストッキングを付ける。
下半身にはさらにペチコートというスカートをはき、上はボディズという紐で締める上着を着る。両者をあわせたものがケルだ。
今日のマーガレットは緑色のボディズにペチコートだった。ボディズにはシンガからもらった青い袖を付けている。
そして、一番外側には濃い青のガウンを着る。肩から足首までの長さがあり、スカートの前が三角に開いている。その部分には、ペチコートを隠すように純白の『前当て』が付けられていた。
そして、白いエプロンだった。
「マーガレットの服も、十分きれいだよ」シンガはそう言うが、目は盤面にある。私の方を見ずに言ってもダメでしょ、とマーガレットが思う。
「そういってくれるのは、うれしいけど、でもねぇ。もう少し色々な服が欲しいわね」
シンガは答えない。
「例えば、ペチコートは茜色のものしか持っていないし」マーガレットがそう言って、シンガの様子を窺う。
この時代の女性にとって、ペチコートは下着の範疇になるだろう。人に見せるものではない。あえて肉体を連想させるものをシンガに投げかけて、サイコロを振る。
シンガは顔色一つ変えない。彼もサイコロを振って、次の手を考えている。
“これは脈が無いわね”
同じ十五歳といっても、男と女では違う。シンガはすでに『男』にはなっているだろうけれど、まだ頭だけ先行していて、自分の体の変化に気づいていない。好いてくれてはいるんでしょうけど。
マーガレットが思う。
一方でマーガレットは、すでに『薔薇物語』を読んでいる。十三世紀にフランスで書かれた、恋愛の作法の書だ。女官や侍女の間で人気だった。彼女はフランス語が出来たので、同僚に翻訳しながら読み聞かせることもある。
“まあ、いいか。二人とも若いのだし、当分待ちましょう”




